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わが一九四五年――1 一九四五年という夏(6)
2018/06/09(Sat)
 わが一九四五年
 
 1 一九四五年という夏
     ――わが私的回想のなかで――

 
    4 ……  ……
    5 ……  ……
 
    6
 
 一九四五年、私たち旧制中学生は、中島飛行機製作所に動員された勤労学生であった。工場では「キ-84」型陸軍戦闘機を製作していた。通称「疾風」と呼ばれた陸軍最後の大型戦闘機である。私はその機関砲弾倉を挿入する弾倉滑車という小部品を作らされていた。
 しかし、工場内には太平洋戦開戦当時の緊張はなかった。苛酷な作業日程と、劣悪な管理体制と、続く空襲とによって、慢性的な工員の怠業と、そのしわ寄せが、いつも動員学徒たちに負わされていた。工場は当然のように退廃的な雰囲気に満ちて、虚無的な淫靡さが支配していた。女専、高女の若い娘たちも、この工場には多く動員されて来ていた。彼女たちは制服の上衣にモンペ、そして、日の丸の鉢巻き姿であった。少年の眼にはそれは清楚に映った。しかし、それはいまにして思えば、形骸に過ぎなかったかも知れぬ。私たち少年の仲間にも、誰某と、某高女の生徒とがひそかに交際しているという囁きが、羨望をこめて私語されていた。私たちは、私たちよりも一世代上の青年たちのように虚無的でも絶望的でもなかった。そうした形而上の観念に苦しむにはまだあまりに稚なかったからであろう。その日その日を小動物のように生きていたといった方が正確であろう。
 工場に動員されて、三月目に私は病んだ。私は入院して、絶対安静が続いた。夜毎に空襲があった。爆撃されれば私はベッドの上で手術後の不自由な体で、焼死するべき運命だった。一本の蒼桐と苔づいた高い石塀は、その病室の窓から見た情景なのだった。
 某日、私の病室を郡山女専の小柄な少女が見舞ってくれた。私はその少女と同じ工程の作業場にいたのだった。見舞うといっても、少女は、病院の玄関から廊下づたいに病室を訪れたのではない。病院の裏門から庭伝いに私の病室の窓に立った。そして、窓越しにベッドの私に一言、二言の言葉をかけて、貧弱な、だがその頃はもう貴重な花を窓からサイド・テーブルの上に置いて帰った。その庭は決して日が射さない。晴れているのにいつも夕暮が、薄曇りのような庭に小さな、例のモンペ姿の少女の顔が夕顔のように浮かんでいた。――その花がなんであったか、もう忘れた。少年の私はこの年上の少女の厚意を、感動とは別のまるで異様な一種の不思議な感覚で、卓上の花を眺めていた。少女とは作業上のこと以外にほとんど親しく口をきいたことがなかった。ただ、私はこの少女から電気ドリルの扱い方、リベットの打ち方の手ほどきを受けただけだった。少女も必要以外に私に話しかけようとはしなかった。だから、私は彼女の突然の見舞いが不可思議だったのだ。少女の名は河野矩子といっていた。八・一五を境に彼女たちは故郷に帰っていった。――それだけであった。その少女はたぶん原田康子氏と同じ年頃ではなかったろうか。 ……  ……
(※ここに取り挙げた原田康子の初期短篇小説)「雪の巣」の角達二や津崎優のような少年体験を私は持たなかったが、その少年像にあの時代を生きた確かな共感があるのは、同じ時代を生きたものだけが共通する感傷からであろうか。――私はそれを否定したい。 ……  ……
 ……  ……
 
     ――小川和佑『わが一九四五年 ――青春の記録1』
        (昭和五十年九月・現代教養文庫・社会思想社刊)
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わが一九四五年――1 一九四五年という夏(3)
2018/05/25(Fri)
 わが一九四五年
 
 1 一九四五年という夏
     ――わが私的回想のなかで――

 
    3
 
 あれから多くの季節、就中多くの夏が、暦のなかを過ぎていった。しかし、それらの夏はたったひとつの夏の比重に及ばない。――ひとはそれぞれ、誰しも人生でそうした季節を所有しているはずで、その季節を負って生きているはずだ。
 少なくとも、十五歳の夏以前の私を含める、日本の常民の少年たちには、未来について語る資格は、当時の国家権力によって剥奪されていた。私たちはまだ青年になるために残されていた残り少ない時間を制限つきで与えられていたに過ぎない。憎悪を籠めて情念的な表現を用いれば、「国家」を僭称する産軍共同権力の維持に供せられるべき無名の要員にしか過ぎなかった。
 一九四五年、私たちは既にほとんど授業を放棄させられていた。その替りに勤労動員という名のもとに成人と同等に近い肉体労働を課せられたていた。教師は極く少数の例外的な最後まで知識人の自覚を辛うじて保持していた数人を除いては、機構の末端にある下級管理者に堕していた。
 当時、動員された工場(中島飛行機製作所,現富士重工)では、十四、五歳の少年たちにも、手当の現物給与として、時折、煙草が支給されたと聞いたら、現代の教育熱心な若い母親たちは、こういう事象を絶対に黙認するまい。少年たちは絶望も悲観もしていなかった。在るがままの現実を素直に生きる以外の生き方を知らなかったから――。彼らは過労と空腹のなかで、喫煙の習慣を覚えた。あたかも、ラテン・アメリカの山地に追い詰められたインディオたちが、その空腹から遁がれるためにコカの葉を嚙むように。
 そうだ。この章の冒頭で私は、盛夏なのに上着を着ていたと書いた。――だがその上着は黒詰衿の学生服ではない。旧制中学生としての制服、制帽を許されたのは入学当時のたった一年だけだった。次に与えられた制服は、黄土色の軍服まがいの制服と軍帽まがいの同色の戦闘帽と称するものであった。 ……  …… この黄土色の制服は、私たちにとってはいまから予約されていた死衣だったのだ。
 ――これはこの一冊の主題のほかなのだが、私と同世代の教育者たちは、なぜああも少年たちに制服を強要したがるのであろう。彼らにとって、かつての制服に対する忌まわしい原体験はとうの昔に、風化し、解体してしまって、精神に何らの痕跡も留めていないのだろうか。つまり、彼らはなにひとつ、精神の結実をももたらさずにただ喰い、生きたに過ぎなかったのか。しかし、これは単なる末梢的な現象に過ぎない。
 私は私の「私性」に拠る原風景の持続する限り、所謂、平和のなかに生きて来た同世代に深い失望と、ひそかな瞋恚を覚えぬわけにはいかぬ。いまにして思えば、私にとって「国家」とはなにであったのであろうか。十五歳の私に国家は、悉皆死以外のなにものをも与えてくれなかったような気がする。
 
     ――小川和佑『わが一九四五年 ――青春の記録1』
        (昭和五十年九月・現代教養文庫・社会思想社刊)
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わが一九四五年――1 一九四五年という夏(1・2)
2018/04/29(Sun)
 わが一九四五年
 
 1 一九四五年という夏
     ――わが私的回想のなかで――

 
    1
 
 私にとっての記憶の基底部にある原風景は恒時、夏にはじまる。
 先ず、それは貧弱な一本の蒼桐があるばかりで、その向うに日の当たらぬ苔づいた石塀が作る真昼の瞑み――その頃、私は病んでいた。そして、それは病室の窓から見える唯一の情景であった。……とか、または、一本の青い樹木もないセピア色の瓦礫の拡がりのなかでしきりに啼く油蝉の声、やがてその広大なセピア一色の風景の涯に沈む陽。あるいは、土用を過ぎた午前の炎天下で聞かされた「玉音放送」の日の蒼鉛色の、そのくせ暑く湿った夏空の色なのである。
 十五歳の私は、そのとき孟夏の季節の最中なのに上着を着けていた。そこに集められた少年たちのなかで、例外的に私だけが上着を着用し、衿のフックまでかけていたのではない。すべての少年たちが、いちように私と同じような服装をしていたのだった。少年の私たちには軽快な夏衣の着装は許されていなかったのである。
 あれから既に三十余年になる。しかし、これは人生の半ば以上を生きてしまったもの特有の回想癖、回顧趣味とは本質的に意味を異にする。世間的小成功者が辛酸労苦の自己の過去を誇らし気に、また懐しみを籠めて語るスノビズムとは無縁のものだ。それは、いわば、私という「私性」に関わる原風景の主要な部分であり、私の存在の原点の集約だった。
 そして、その原風景を超え得た地点からでなしには、私の少年期というものはあり得ない。
 
    2
 
 現代の青年たちにとって、この私の「私性」に関わる原風景の意味は、はたして、理解されるかどうか、それについて多くの自信を持ち得ない。しかし、私はいま私の生きた時代と精神を語っておかねばならぬ。
 なんのために――。私にとっては「昭和五十年」という半世紀の重量よりも、「戦後三十年」がより重く、深い意味を所持しているからによる。
 ……  ……
 一時代を生きた者だけが、その生きた時代を、次の時代に、現象としてではなしに、語り得べき時代の真実として、既に歴史の時間の底辺に埋没してしまったものを、また、語らずして終った沈黙の精神の所産を、そのまま等質に残したかったのだ。
 そのためには、私は意識的に私の内部で抑圧し続けて来た私の「私性」に関わる少年期について、いわばひとつの確信に基づいて、次代の君たちに証言せねばならない。
 それは「戦後三十年」を生きて来たものの責任であろう。

     ――小川和佑『わが一九四五年 ――青春の記録1』
        (昭和五十年九月・現代教養文庫・社会思想社刊)
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憂国忌いくたび
2017/11/25(Sat)
   14年目(昭和59年)の「憂国忌」――三島由紀夫再び
 
 三島由紀夫が遺作『天人五衰』の最終章の初夏の月修寺の描写を書き終えたのは一九七〇年(昭和四十五年)の十一月二十五日の夜明だった。その日、衝撃の作家の自決が行われた。
 あれからもう十四回目のその日が廻って来た。「狂気の沙汰」と評した中曽根防衛庁長官は現在では支持率五〇%以上の内閣首班の二期目に入る。遥かな時間はまことに三島の『豊饒に海』の主題のごとく輪廻転生を思わせて、改めて学生の間に三島文学再評価の気運を感じさせる。
 ――というのはほかでもなく、この七月から十月にかけて開かれた東大・中大生を中心にした三島由紀夫研究会が、文学離れといわれている現代の学生の関心を集めて、思いもかけず多数の若い聴講者を集めたことだった。この連続講演の第一回の演壇に上がって、三分の一を占める女子学生の数も、十四年を経て行動的思想家三島由紀夫像から、本来の作家三島由紀夫像に回復したという感を深くした。没後のさまざまな政治的・思想的な批判と思惑を捨象して、再び作家の三島由紀夫像が若い読者の関心を呼んだのは、講演の後の座談会での発言によれば、三島由紀夫の小説戯曲に現代の小説からは失われた文学を初めて教えられたという意見が多かった。
 二十歳前後の学生たちにとって三島事件はほとんどなんお精神的痕跡も残してはいない。学生運動の完全に失速してしまったいまの時代、学生たちが三島の「金閣寺」や「鹿鳴館」にたどり着いたのは、政治的・思想的な動機からではなく純粋に文学的動機からであった。
 個性のない文体でいくら日常的な小市民の意識を語ろうとも、それがいかにテレビ化、映画化されようとも、学生たちの読者にとっては全くそれは魅力を感じないのだという。つまり、文学らしい文学への渇望が自ずと三島由紀夫の作品に到達したという見解が自然だろう。学生の保守化、右傾化という次元の問題ではない。『春の雪』や『奔馬』になにかを観ようとしているならば、日常と癒着して、それを唯一の存在感と考えている現代の小説に対する批判と抗議の結果なのだった。
 彼らが三島作品を改めて読むということは一部の思想家の考えている「憂国」とは完全に断ち切られている。もしも十四年祭の「憂国忌」を契機に新しい三島ブームというものが起こり得たならば、それは政治と思想に向けられたものではなく、現代の作家へ向けての読者の厳しい意志の表明である。
 三島・高橋和巳以後の作家たちは、小説がなによりも文学であるというきわめて常識的な原理を見失ってはいなかったか。若者文化を軽蔑しながら、それにおもねり接近していった報復をいま学生の読者層から手厳しく受けているということが現実である。
 例えば、三島由紀夫の古典理解と同等以上に古典を語ることのできる新進作家が皆無なことを学生たちは知っている。ブランド商品や食味の知識など、彼らにとっては軽蔑の対象であっても、作家への信頼や畏敬への念には繋がらない。それを充分認識しているから、あえて新進作家の小説が文庫本に入ろうとも手にしないだけである。
 しかし、この三島由紀夫への学生たちの再発見は文学の回復というだけではない側面を有している。六〇年代を通じて三島の時代というものは高橋和巳の存在という二つの極によって成立していた
 三島・高橋。あるいは三島・大江(※初出では「吉本」)でもよい、そうした二極の上に三島由紀夫の作品が存在していたが、八〇年代の三島の場合に一方に極が不在なのだ。それはきわめて危険な形ともなりかねない。
 若い読者のこの三島文学再発見の動きを八五年の文学へつないで、今後とも注意深く見守り続けてゆきたい。
 
   〈初出〉昭和五九(一九八四)年一一月二八日「毎日新聞」(夕刊)
     ――小川和佑「三島由紀夫―反『日本浪曼派』論」
        「あとがき」より
        (昭和六〇年四月・林道舎)
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誄 辞――憂国忌十年祭に
2017/11/23(Thu)
 自己の思想を自決という日本的な美意識のうちに具現、完結して見せたこの稀有の作家が逝って既に十星霜。
 その間、作家を語る多くの言葉が捧げられたが、誰が果してその美、その真実をよく語り得たか。
 多くの言葉の以前に、作家は作品によってのみ語るを得る。聴け、耳を傾けよ。
 数万の語を費して作家三島由紀夫を讃美するを罷めよ。
 黙していまこそ聴け。少年の日の詩の一行。青年の日の小説、あるいは壮年の日の劇の一節を。作家の語る声にて聴け。
 その危険に満ちた文学は少しも損なわれることなく確かにきょう、われわれが耳底に蘇る。
 一人の同時代者として、われらは作家の生涯を見届けた。過ぎ去った歳月、遥かな時間が再びわれらに呼びかける声となる。
 われらが超克せねばならぬ時代を作家は生きた。そして、自らの手でその生涯を閉じることによってわらえらの意志を峻拒した。
 われらは語ってはならぬ。而して、拒んではならぬ。ただ黙して聴け。作家三島由紀夫の語った言葉を。
 
     (昭和五十五年十一月二十五日)
     ――小川和佑「三島由紀夫―反『日本浪曼派』論」
        巻頭の献辞より
        (昭和六十年四月・林道舎)
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小川和佑先生の言葉
2017/11/11(Sat)
 小川和佑ゼミナールOB会誌『小川のせせらぎ』第1号(平成28年4月29日発行)所収の冊子版『小川和佑先生著書目録』では、先生の文章を極力引用・転載しようと思っていました。実際、第一回はそのように編集しましたが、第二回からは、書誌的な解題を兼ねて紹介する文章を除いて、これぞと思う言葉は『著書目録』から独立させて、あらためて別に『小川和佑先生の言葉』としてまとめて掲載することにしました。いわば、小川和佑名言集です。
 本当は該当の書籍を実際に手に取って読んでもらうのが一番いいのですが、現在ではなかなか手にすることができないと思いますので、せめて抜粋でも抜き出すことにします。あくまでも抜粋ですが、なるべく省略せずに載せたいと思います。
 どうせならテーマ別に編集したいところですが、差し当たりはランダムに転記します。すでにこのブログ版でも、「小川和佑先生の言葉」というカテゴリにまとめています。どうぞ、じっくりとお読みください。味わい深いこと保証します。清冽です。
  
 なお、明らかな誤植は特に断りなく訂正しました。また、省略により前後の意味が通じにくい所は、( )内に教科書体(ブログ版では斜体)の文字で補いました。
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『百観音巡礼』
2017/10/28(Sat)
【書名】百観音巡礼 やすらぎと祈りの旅
【発行日】昭和六〇(一九八五)年六月一日
【発行所】実業之日本社
【体裁】本文新書判、丸背厚表紙(新書判よりやや大きめ)、コート紙カバー、帯付。口絵写真・アート紙一頁(坂東第一番杉本寺の写真と坂東三十三ヵ所巡礼歌の句)。装幀・安彦勝博。
【頁数】参考文献一覧を含めて二四四頁
【定価】一〇〇〇円
【国際標準図書番号】ISBN4-408-41043-8
【目次・内容】
 百観音への旅――序にかえて
西国路巡礼――古都の面影
南京秋色        西国第九番 興福寺南円堂
こもくりの泊瀬     西国第八番 豊山長谷寺
大友皇子ゆかりの    西国第十四番 長等山三井寺
洛東の聖地       西国第十六番 音羽山清水寺
坂東路巡礼――東国豪族たちの聖地
古都の青葉       坂東第一番 大蔵山杉本寺
湖畔の浄土       坂東第十八番 補陀洛山中禅寺
坂東最北の札所     坂東第二十一番 八溝山日輪寺
空に浮かぶ御堂     坂東第三十一番 大悲山笠森寺
秩父路巡礼――自由民権の夢
秩父のアフロディテ像  秩父第四番 高谷山金昌寺
自由自治元年の鐘    秩父第二十三番 松風山音楽寺
観音への道――西国三十三ヵ所
鎌倉期にはじまる東国の霊場――坂東三十三ヵ所
武甲山に臨む絹の里――秩父三十四ヵ所
 あとがき
 参考文献一覧
【解題】
 テーマとしては『寺のある風景 坂東三十三ヵ所』の続編で、百観音巡礼に絞った拡大版であり、造本としては『文学碑のある風景』に続く実業之日本社の「小B6判シリーズ」の第二弾にあたる。前半三章の本編と、その総説というべき後半三章の計六章から成る。
 前半の三章はそれぞれに旅の伴走者が異なる。一章の「西国路巡礼」は奥様。これが好いのである。その会話により、旅の進行やそこに語られる故事・風物・物語の解説を兼ねているのだが、本文中でも、

 ――なんだ。これじゃあ、季節こそ違え、まるで堀辰雄の『花あしび』の旅みたいなもんじゃないか……。私は心の中で呟いた。
     ――「西国路巡礼」「南京秋色――西国第九番 興福寺南円堂」


 と断っている通り、ちょっとくすぐったいようだけど、たいへん微笑ましくも好ましいものになっている。この時の奈良、大津、京都への旅は「十一月ももうなかば」ということだが、おそらく昭和五九年のことだろう。
 二章「坂東路巡礼」(の中禅寺と日輪寺)では、「宇都宮大学の学生渡辺君」がランドクルーザーを運転して取材に協力。そして三章「秩父路巡礼」で自家用車を運転し案内役を務めるのは、「私の演習(ゼミ)の学生の一人、明大生駒野君」である。
 後半の三章は、百の観音様について、①キャッチコピー的な一口紹介 ②番所ナンバーと寺の名称 ③本尊 ④二~三行の小解説 ⑤順礼歌(御詠歌)=春秋社版『日本歌謡集成』第五巻からの引用 ⑥所在地の住所とアクセス案内 で構成される。
☆西山蔵書
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『三島由紀夫―反『日本浪曼派』論』
2017/10/19(Thu)
【書名】三島由紀夫―反『日本浪曼派』論
【発行日】昭和六〇(一九八五)年四月五日
【発行所】林道舎
【体裁】四六版上製、角背朱色厚表紙、函入り、帯付。先の『中村真一郎とその時代』に準じた色違い同意匠。口絵アート紙一頁(終章の「一枚の肖像写真」で語られる剣道着姿の極めて健康で「どこにも精神の腐食の翳りがない」三島由紀夫のスナップ)。
【頁数】一五九頁
【定価】二〇〇〇円
【目次・内容】
誄辞――憂国忌十年祭に
Ⅰ 反『日本浪曼派』試論
 1 反『日本浪曼派』試論
   体験としての『日本浪曼派』 「水中花」・静雄詩
   戦後・反『日本浪曼派』   道造詩のナショナリズム
   午後の陽光
 2 昭和十年代の詩と思想
   「日本浪曼派広告」     浪曼派の詩人たち
   文学的に本主義       吉田一穂の詩
 3 伊東静雄
   ナショナリズムとしての『日本浪曼派』
   戦後の伊東静雄       『日本浪曼派』への参加
   浪曼者としてのナショナリズム意識
Ⅱ 終末からの出発
 1 三島由紀夫における少年期
   作家の死          特異な幼年形成
   詩を書く少年        「花ざかりの森」へ
 2 唯美と詩精神――「初期詩篇」「花ざかりの森」の位相
   作家の詩的体験       「初期詩篇」をめぐって
   「抒情詩抄」の周辺     『花ざかりの森』の世界
Ⅲ 花花の思想――作品論への試み
 1 短篇「剣」の美学――夭折への夢想
   所謂「三島事件」の記憶   一般論としての「武技」認識
   反時代的美意識       夭折への夢想
 2 文学とVisual Media ――川端、三島、中村の文学
   Visual Mediaのなかの文学  『雪国』とVisual Media
   Visual Mediaの肥大化    文学の危機
 3 『潮騒』紀行
   伊勢湾の海と空       夢幻劇の世界・海女の美しさ
   『潮騒』の愛        浄福の性
Ⅳ  憂国と死と
 1 虚妄としての行動の思想
   日本人の武器感覚      儀式と現実
   武技と教養         尚武の心
   再び美学について
 2 死者への献辞――回想としてのモノローグ
   『豊饒の海』終章      詩を書く少年への回想
   終末からの出発       一枚の肖像写真
 あとがき――憂国忌いくたび
【解題】
 戦後派の小説家で、小川和佑先生が終生追い駆けた二大作家は中村真一郎と三島由紀夫である。この一年半前(わずか一年半前!)に上梓された『中村真一郎とその時代』と対になる三島由紀夫論を集成した長編評論。本書の成り立ちは「あとがき」をそのまま引用した方がよいであろう。

 本書には作家の生前の一九六八年に執筆した反『日本浪曼派』論(原題「日本浪曼派」ノート」から、八四年の「死者への献辞」「憂国忌いくたび」までの十七年間の『日本浪曼派』論・三島由紀夫論を収録した。この中、「唯美と詩精神」を収めた『三島由紀夫研究』は研究の領域からの最初の一冊だった。この一冊が完成したおり、作家は非常に喜んでくれた。それを編者の一人としたいまは懐かしく回想する。――それから十五年、時代は深層で激動し、再び作家の思想が再評価されようとしている。ここに収めた諸論はその深層の逆流に対する筆者の刻々の意志を語ったものである。四章のそれぞれの主題は四重奏のように一つの統合された大主題を構成する。それは三島由紀夫逝き、保田与重郎の逝った現在、『日本浪曼派』の文学と思想とはなにかという問いに応えるべきものでもある。
 これは戦後詩・戦後文学に参加した筆者の自らにあえて問わねばならぬ主題でもあった。
 ――と同時に同時代者として、作家の輝かしい文学の出発から終末までを目撃した筆者の今年、憂国忌十五年祭に捧げる献辞でもある。
          ――「あとがき」(一九八五年 春)


 解題の必要がないほど明快に語られている。
 なお、Ⅲの2の「文学とVisual Media」は末尾(一〇五頁)に、

(補記)本稿は一九八四年五月十七日第四十五回国際ペン東京大会において、"Citnatune and Visual Media"のセクションで発表された原稿に基づいた一篇である。


 とあるが、"Citnatune"は"Literature"の誤植。「第四十五回」は「第四十七回」の誤りである。
 この国際ペン東京大会は、昭和五九(一九八四)年五月一四日から一七日まで東京新宿の京王プラザホテルで開催され、そのうち一五日~一七日の各三日間、分科会A、B、Cがそれぞれ開かれた。このうち分科会Cが"Literature and visual media"(文学と映像媒体)で、その最終日に小川先生は登壇した。
 この章はその発言を基にした原稿ということだが、おそらくその発言の元の原稿があり、元原稿、実際の発言、本書の決定稿と、それほど大きな異同はないものと思われる。つまり、最初から完璧な原稿を作成し発言したものと推測される。
 日本ペンクラブの公式ホームページによると、参加センター四五、海外からの参加二一九名、日本ペン会員参加三五一名、一般参加五三名と記録されている。
 当時、小川ゼミの現役の四年生であった仏文学専攻の五十嵐正人さんがその最終日に参加している。(本書の誤植に関してご教示を受けた。この場を借りて御礼申し上げます)。
 この大会の全体のテーマは「核状況下における文学――なぜわれわれは書くのか」というものであった。代表者会議で核兵器の廃絶についての決議案ほかが可決された。当時相当刺激的で画期的な会議として世間一般でも大いに注目された。私はやっと大学二年に上がって小川ゼミに入ったばかりで、文学を取り巻く現状認識などまるでなかったが、鮮やかな印象として記憶に残っている。
 時あたかも「1984」である。それから実に三十三年が経ったが、世界は良くなるどころか益々混迷を深め、核戦争の危機が「冗談じゃなく」現実のものとして目の前に迫っているというのにも拘わらず、一九八〇年代(の特にこの八三年あたりから八五年にかけて)の方がよほど危機感があったように思うのはどういうわけだろう。
「なぜわれわれは書くのか」という根源的なそして常に顧みられなくてはならない問いもとんと聞かれなくなった(ような気がする)。そんな青臭いことをと一笑に付していいのだろうか。この危機感のなさは、当時危機を感じて声を上げた多くの人がすでにこの世に亡いからなどというのじゃあるまいな!
 今こそ文学者はいっせいに卒倒すべきではないのか。パフォーマンスとしてでもいいから。今度の衆議院選挙に際して、国会議事堂前で本当に倒れてみたらどうだろう。(なら、お前がやれという話かもしれませんが……)。
          ――平成二九(二〇一七)年一〇月一六日記
☆西山蔵書 ◎五十嵐蔵書
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人を愛することの意味
2017/10/14(Sat)
伴侶としての性と愛
 この「伴侶としての性と愛」というフレーズはそこに「人生の」という語が冠せられる。
 性と愛を抜きにして人の生涯は考えられないし、またそれが人生の意味の多くを占めるたいせつな要素であることも言うまでもない。
 ……  ……
 この現代の経済社会はいま文化の反省期なのだ。その反省期は「人間として」という強烈な意志において検証されねばならない。そのためには「伴侶としての性と愛」が新たに正面に提出された課題として重い意味を持って来る。
 この問題はかつて高橋和巳が長編『悲の器』で提示していた。法学者正木典膳の破滅の人生は性と愛とに操られている。生涯にただ一度の愛のために、あらゆる妥協を排して破滅を急ぐこの法学者の姿に、いま現代の性と愛をいかに考えるかが改めて提示されたきわめて良質なテキストとしての意味を持っている。
 ……  ……
東歌のなかの性と愛
 二本松市の郊外、かつての三春街道十字路に江戸後期の万葉歌碑がある。……  ……
  安太多良の
  嶺に伏す鹿猪のありつつも
  吾は到らむ
  寝処な去りそね
 安達太良山にやどる獣のように、私はいつもきまってお前を訪れよう。だから寝処を変えるなよ。――とまあ、こんな意味である。……  ……
 東歌には多くの民謡が収録されているからこれも民謡だと考えれば、これは労働歌ではなかったろうか。苦しい労働のおり、心を励ますためにいまでもエロチックな歌などを歌って女たちに嬌声を挙げさせ、それを活力に男たちは労働の苦痛に堪えるという光景は現在で続いている。
 ……  ……
 ここでは「性」がごく自然に生産と労働の中に組み込まれている。その「性」には影がない。……  ……
  上つ毛野
  阿蘇のま麻むら かき抱き
  寝れども飽かぬを
  あどか我かせむ
 ……  ……
 これも元来は民謡だろう。「上つ毛野」が労働歌なら「安太多良の」と少しその質が違って、ここでは「性」は自らを鼓舞するために歌われている。……  ……
 ……  ……
 古代人の「性」は現代人のそれのように病んではいない。「伴侶としての性」はいつも労働・生産を活性化させる「性」である。「上つ毛野」の歌では「性」は歓喜であっても惑溺ではない。
 しかし、現代の「性」は古代の「性」のようにもう生産と一元化される要素を失っている。それは不毛の性としか呼びようもないほど荒廃したものである。問題はそれなのだ。現代人はもう一度、生産・労働・性の回路を回復させる必要はないか。
『悲の器』のように破滅へ向かって滑降する「性」ではなく、調和と上昇を志向する「性」を必要としてはいないだろうか。現代の男性たちはこの辺で、古代の「性」の原点にもどり意識そのものを変革しなくてはならない時期に至っているようだ。
 しかし、それだけではない。東歌だけで古代人たちの精神生活の総てを考えることも、危険である。東歌の中にはしきりに「し」という形容詞が多く使われている。
  多摩川に さらす手作り
  さらさらに
  なぞにこの子の
  ここだ愛しき
 
  我が恋は
  まさかも愛し 草枕
  多胡の入野の
  奥も愛しも
  (原文にはふりがなと語釈付き)
 ここではもう「性」は「愛」に昇華されている。「愛」という漢字(外来語)を「かなし」と訓ませた『万葉集』の表記者は、もうこれは詩人そのものであろう。
人麻呂歌に見る「愛し」
 その頂点が人麻呂歌ではなかったか。『万葉集』巻二の挽歌収められた「柿本朝臣人麻呂・妻死にし後に、泣血愛慟して作る歌二首 併せて短歌」にそれを見ることが出来る。
  秋山の
  黄葉を茂み 惑ひぬる
  妹を求めむ
  山道知らずも
 死者の魂は山に還るという。大和は四辺を山門に囲まれている。山に還った妻の魂を求めて黄葉した秋の山に迷い入る嘆きながら私なのだと、人麻呂は歌う。これは「愛し」の頂点である。……  ……
 この思いの深さに較べれば現代の愛と呼ばれているものがひどく軽薄に見えて来ないか。もっとも、現代の男性たちはとても気恥ずかしくて「愛」などと口に出してはいえないという一面はよく分かる。どうも古い意識の中には人生を仕事だげに鈍化して、一種の衆道者的精神を理想としている男性たちが多い。「愛」や「性」などというものは仕事の疲労回復剤の一種くらいに考えている。そこに人間としての欠陥があることをまるで気づいていない。……  ……
 ……  ……
 人麻呂歌は巻中の「石見国自傷歌」で挽歌の部を閉じる。
  鴨山の
  岩根しまける 我れをかも
  知らにと妹が
  待ちつつあらむ
 この歌には「柿本朝臣人麻呂 石見の国に在りて死に臨む時に、自ら傷みて作る歌一首」という詞書がついている。
 梅原猛の『水底の歌』によって、にわかに注目された歌だ。……  ……
 ……  ……
 ……  ……歌の意は「鴨山の岩を枕にして死んでゆこうとする我。その非業の死を知らずに妻はわが帰りを待ちつつあるだろうよ。」である。「岩根しまける」を行路死ととるか、刑死ととるかが解釈の分かれ目なのだが、いずれにしても自然死ではない死を「岩根しまける」に籠めている。それを水死刑と考えた梅原説はこの歌の凄愴を詩的に増幅すものだった。
 この歌は「愛し」の最極限下に歌われている。「知らにと妹が待ちつつあらむ」という下の句に、人麻呂の石見妻の依羅娘子の「愛の絶対」が彼には信じられている。こうなると、この「愛」は「性」から切り離されて心性そのもになっている。妻の「絶対の愛」と等質な「愛」を彼もまた所有しているからこそ「岩根しまける我れをかも」と嘆くのである。
 この「愛」の形は希釈されてしまった日常の次元ではなかなか見え難い。しかし、それが詩に昇華されたとき、その見え難いものがはっきり見えて来る。それが文学の最大の効用だといえる。それにしても、現代人のなん人が果して「知らにと妹が待ちつつあらむ」と歌いきれる自信を持っているだろうか。
 いま人間の精神は魂の空洞化、荒涼化の中で限りなく解体を急いでいる。復古主義という意味ではなく人麻呂歌再読の必要性は魂の回復のために必要ではないか。
 現代人がその人生の総てを仕事において純化しようと意志して来たことは、確かに近代の出発以来の大きな経済水準の格差から来る貧困から脱出するを得た。しかし、一方で考えて見ればその純化の志向は物的充足に対する熾烈な執着といえないこともない。
 物的価値観から見れば「万葉の性と愛」など取るに足らぬかも知れぬ。――が、それでは人間としての存在そのものはどうなのだと問いたい。荒野の時代だからこそ「伴侶としての性と愛」の意味は重い。
 極限すれば「愛し」を分らぬ人間に信がおけぬのだ。
 
     ――小川和佑『生きがいの再発見 名著22選』
        「3 伴侶としての愛と性――生の原点としての」
        「万葉集――人を愛することの意味」より
        (一九八五年二月・経林書房)
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『生きがいの再発見 名著22選』
2017/10/10(Tue)
【書名】生きがいの再発見 名著22選
(※「22」は横組みである)
【発行日】昭和六〇(一九八五)年二月二五日
【発行所】経林書房
【体裁】四六判ソフトカバ―、コート紙カバー付。
【頁数】二二〇頁
【定価】一二〇〇円
【国際標準図書番号】ISBN4-7673-0225-0
【目次・内容】
プ口口ーグ/文学の娯しみ
黒の試走車――情報社会下での小説
1 時代の指導者群像
   源氏物語――帝王の英知
   箱根の坂――時代の創造者を描く司馬遼太郎
   深重の海――津本陽の書かれざる維新史
   風濤――井上靖の描く国家とは何か
2 転換期の知識人たち――明治・大正を生きた
   舞姫――森鷗外とエリート青年の挫折
   奔流の人――夏堀正元のもうひとつの幕末維新像
   河童――芥川の描いた近未来図
3 伴侶としての愛と性――生の原点としての
   万葉集――人を愛することの意味
   菜穂子――堀辰雄の描いた愛の不毛
   古事記――英雄叙事詩の純愛
4 青春と老年を考える――回帰する人生
   三四郎――夏目漱石の描く青年像
   なぎの葉考――野口富士男の青春挽歌
   卒塔婆小町――老を描く古典
   三熊野詣――三島由紀夫の老年の夢想
5 集団力学と個の存在
   いつもと同じ春――辻井喬の個を曝す孤独
   風の王国――五木寛之の近代の超剋
   パリ経由・夕闇のパレスチナ――胡桃沢耕史の冒険小説の魅力
6 日本人の死生観
   その年の冬――癌の病床で執筆の立原正秋
   静かなノモンハン――伊藤桂一の無名者の死生観
   海燕ジョーの奇蹟――佐木隆三に見る南溟
   HIROSHIMA――小田実の描く現代、その死と生
あとがき
【解題】
 この本は、先生の全著作に照らしても、先生の文学観、死生観、日本人観、さらには愛と性、青春と老年、現代社会といったものに対する考え方が、最も端的に出ている本である。 

――と、まあこういうように文学の娯しみというものは堅苦しいものではない。もっと身近で、時代ごとの人間像を通じて、具体的な知恵を鏡に映し出しているものである。そこから人はさまざまな事柄を学ぶことができるし、かつて、人は実際にそれを学んで来た。
『古事記』『万葉集』のような古典といえども、それは変りない。ここではそうした日本文学の古典から現代の作品までを、文学史という教科書臭い時間・空間を取り払って専ら自由に人間の知恵・文学の娯しみについて語ったものである。――つまり、この一冊は筆者にとっての書き下ろし『私説・文学入門』であり、従来の類書のような名作案内・あるいは名作鑑賞といった発想を全的に廃除したものである。
     ――「プロローグ――人間の知恵・文学の娯しみ」


 というように広く一般社会人を対象に書き下ろされた評論で、そうした性格から軽評論的に平易な文体で書かれているが、逆にのびやかに、しかし厳として先生の〈思想〉が語られている。現代教養文庫の『青春の記録』三冊とともに必読の書である。是非読んでいただきたい。(特に「3 伴侶としての愛と性――生の原点としての」の「万葉集――人を愛することの意味」の部分は本ブログの「小川和佑先生の言葉」として別に抄録する)。
☆西山蔵書
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