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わが一九四五年――4 ヒロシマにはじまる(3・4)
2018/08/15(Wed)
 わが一九四五年
 
 4 ヒロシマにはじまる
 
     3
 
 私と同じ一九三〇年生まれの中山士朗氏の原爆体験はもっと苛烈で悲惨なものであったろう。
 短編集『消霧燈』の一冊が、いわばこの十五歳の原景から以後の人生を決定的に支配しているからこそ、中山氏は自ずから作家であることを、人生の唯一の可能性として選びとったのであろう。たとえば、その強弱の差こそあっても、あの夏を境に私たち共通の世代は、恒時的に死霊を負って生きて来た。
 それは気負いでも,衒気でも少しもなく、それが、私たちの深刻を装う仮面でもなく。
 ――であるから「荒野の原景からの出発」などという詩的修辞は皆目不要なのだ。私たち世代の出発は、どう考えても詩的などであるはずがない。
 空襲の夜以後、焼跡整理に駆り出された私たちは死臭の漂うなかで、食事をし、――それが食事と呼べるならばの話である。蒼く日毎に澄んでいこうとする夏空と積乱雲を仰いだ。無名で、無力な常民の戦争体験はひたすら一方的に日常のなかを漂流するだけである。
 八・一五から、その月末まで、学校は再び夏期休暇に入った。昭和五十年史を特集するあるグラビア雑誌の八月十五日の頁に「慟哭・悲憤・痛恨」とこの日を記してあるのだが、私はいまも一種の違和感を持って、それらの記事と回想を読む。私はいま、私たちの前に突然展開した新しい状況にどう対応すればいいのか解らなかった。ともかく、なにかが終ったという解放感だけはあった。しかし、こう書くことで、私は当時、私だけが特に愛国心に乏しかったとか、反戦的だったというのではなさそうである。
 私の周囲の少年たち仲間のほとんどが、敗戦の悲憤、痛恨という激情から遠くかけ離れた場所にいた。グラビア写真に見る皇居前広場にひれ伏して慟哭する人々の姿を私は決して偽りとは思っていないが、それは真実トータルな常民の情感だったろうか。
 その八月十五日の午後から、動員されていた工場内では、軍人、職員ん、徴用工の間に物資の略奪がはじまったのも真実である。
 少しでも利用価値のありそうなものは、激しい争いの末、片端から搬出されていった。証言していい。この略奪者たちは決して慟哭などしなかった。
 九月、二学期がはじまって、「一億総懺悔」という言葉が、提唱された。少年たちは、懺悔よりも、新しい時代に対応することに追われていた。 ……  ……  ……
 ……  ……  ……
 教科書に墨を塗って抹消したのは、あれは十一月だったろうか。塗らせることに教師たちは別段の抵抗感はなかった。ドーテの「最後の授業」のような悲愴な場面は遂にあり得なかった。
 敗戦の現実のなかで、彼らは彼らの行為の責任の一切を、敗戦と指導層にあると考えていた。知識人としての負うべき道徳的責任を全く考えることはなかったと思う。しかし、次次と占領政策が進められていく過程で、なんども教師間に新しい衝動と波紋が起こった。考えて見れば、教師といえども生活者であった。必死に生活を支えている次元では、愛国主義、国粋主義も生活の手段であり、平和主義、民主主義もまた同様であった。――つまり、どのようなイデオロギーも生活を支える支柱であった。敗戦の翌年には、最も国粋的だった中堅教師の一人は、教組の結成とともに、その集団の戦闘的指導者と変っていた。彼は聡明なだけに時流に遅れまいと、彼なりに必死だったのであろう。しかし、これは転向ではない。転向と呼ぶからには、本来自己が明確な思想を所有しなければならない。これは単なる変節でしかない。苛酷な言い方だが、そして、そのために浴びせられる批判を敢えて甘受して言うならば、この転換の時代を生きた生活者のすべては、多かれ少なかれ変節者の汚名を免れることはあるまい。――にもかかわらず、彼らにその自覚はない。「戦後三十年」でなく、彼れの精神の軌跡は持続なしの「昭和五十年」に係わっているのは、このためである。
 そういう時代思潮の逆転換のなかで、この変節が、少年たちの精神に微妙に、鋭敏に影響しなかったはずはない。後年の教育の荒廃はこの時代で既に萌芽していた。 ……  ……  ……
 
    4
 ……  ……  ……
 私にとって、過去が美しかったことは、一度もない。ましてや、八・一五以前のあの時代に再び還ろうとは絶対に思っていない。中山氏にとっても、私にとっても、八・一五からはじまる。――中山氏にとってはヒロシマにはじまる。あの日からの連続としての、その最尖端のきょうを生きる以外に自己の生の確認はない。
 ……  ……  ……
 中山氏も、私もかつて二つの時代を生きた。無名者なるがゆえに無名者の原質を見過ぎるほど見てしまっている。私たちの世代に共通する自己の内なるかたくななまでの自閉の世界を、おそらく、生涯溶解することなく所有し続けて私たちは死ぬであろう。
『消霧燈』は戦後に築かれた現在に対する痛烈な告発である。――そして、私たちは私たちのあの一九四五の夏の「蝉」の声を、いま、改めて、切実に記憶の深淵より蘇らせねばなるまい。――しかし、それを誰と語るのか。この回想に決して懐しき快感はないはずである。
 
     ――小川和佑『わが一九四五年 ――青春の記録1』
        (昭和五十年九月・現代教養文庫・社会思想社刊)
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わが一九四五年――4 ヒロシマにはじまる(1・2)
2018/08/06(Mon)
 わが一九四五年
 
 4 ヒロシマにはじまる
 
    1
 

《じっとしているのよ、じっと。》女は両手でぼくの眼をふさいだ。じっとしていようと思った。そのままで瞼を開こうとすると、太陽が明るい血の色を透かして見える。明るい、実に明るい。
《ほら、五月でしょう。五月のように温かいのよ。》五月だから街も村も花花が咲く、花の匂いが五月をいっぱいにする。広い青い空に鳩が輝きながら舞って……。
《だからあなたったら坊やなの。どうしてさ、五月だっていっただけよ。》だから花がいっぱいに咲いて。
《あら、五月だときまって花が咲くの》ああ、咲くとも。
《嘘、嘘よ。あなたって、とっても嘘つき》
 
 ほんとうは、五月なんてどこにもありはしない。
《でも……、そんなことって、昔、よく知らないけど、むかしはあったみたいね》そうだ。五月は街中の少女という少女はみんな鳩になる。――知っているんだおまえのすべすべした左の腿に小さな淡紅色のあざがあることも。それから、胸の柔毛の奥に大切に蔵ってある可愛いいものを見せてごらん。見せてごらんてば、強情っぱり……。
 
 それは八月だった。乾いた土の中に新しい植物は育たない。そんなことはないな。きっと。新しい麦の一粒が生まれずに死ぬ八月があるはずがない。乾いた土地にも一本の青い芽。
《でも、そんなことって、ほんとに信じていいの、あなた。》
               ――「八月、生まれずに死ぬ」  


 旧い手帖に書きつけた習作である。先ず、中山士朗の短篇集『消霧燈』(昭49・7、三交社刊)収録の「雲の翳り」を論ずる前に、この同時代の作家と同じ時代を生きた、あの夏の記憶作家に倣って、もういちど蘇らせねばなるまい。私はこの記憶の蘇生をもうなんど繰り返して来たであろうか。
「八月、生まれずに死ぬ」は、その記憶の蘇生のモニュメントとも呼べない小断片なのである。
 
    2
 
「あゝかくて 誰がために 咲きつぐわれぞ」(昭18・9『春のいそぎ』弘文堂書房刊所収「誕生日即興歌」)という伊東静雄の詩句がある。この一句がいつまでも奇妙に鮮やかにひとつの夏とともに私の心に残っている。
 ――一九四五年七月十五日の夜は雨。
(※明らかな誤植かどうか確証がないのでそのままとしたが、この日付は宇都宮大空襲があった「七月十二日」の誤りだと思われる)
 夕立がそのまま上がらなかった。爆発音で私が目を覚ましたのは、まだ十二時前だった。私は当然起っていいことが起ったと思った。その時期が来たのだと素直に与えられた現実を受け取った。いま考えて見るとこれは十五歳の少年の諦念のようなものであった。
 暗夜であるはずなのに室内が明るかったのは、火炎が間近だったからであろう。私はいつもの通り、服に着替え、ゲートルを巻いて、編上靴の紐結んだ。それから自転車を引き出し家を出た。重い雑のうのなかには当座のものが一切ある。――何処へ行こう。私は人が歩いていく方角についていこうと単純に考えた。一種の群集心理であろう。門を出る時、私はもう一度、わが家を振りかえった。家はひっそりと、炎の逆照射のなかに黒々と浮かんでいた。庭木がそれよりも黝い翳をつくっている。まだ家の中には伯母と叔父がいるはずだったが、私はなにも告げずにひとりで家を出た。一切の執着はなかった。類焼をまぬかれることはないだろう。確実に今夜、この家が焼亡する。――しかし、それがどうしても実感とどこかで結びつかなかった。私は例の空襲警報の夜の学校防空要員で家を出る時と、全く同じように、それと異なるのは、この夜の群衆の流れのなかに、私自身では大変冷静にまぎれこんでいった。この十五歳の感情はいま回想してみても、どうしても説明がつかない。
 爆撃は急速に激しくなって来る。落下距離が次第に近づいて、至近弾が落ちはじめる。華麗な火文字のように焼夷弾が雨の暗夜に拡散する。新しい火炎が群衆を追いかける。私は自転車のペダルを踏んで、暗い方へ暗い方へと、本能のように走っていった。
 やがて、国道四号線の広いアスファルトの舗装道路と交差する地点にたどり着いた。そこは火から遠かった。その手前に小さな雑木林が道沿いにある。私はその林の縁りで自転車を乗り捨てた。私は疲れていたのではなかった。そこで私はもう一度、自分の街を見た。街の下手、この古い城下町では下町と呼ばれる商店街すべてが燃えているらしかった。国道四号線がその燃焼する部分を二分している。そして、最上の空白の空間を火炎が地を這って飛んでいる。私はそれを狐火のようだと思った。
 この間、家を出てから、ここにたどり着くまでの間に聞こえたはずの物音、交わしたはずの言葉は、なにひとつ憶えていない。記憶はいつも黙劇のように情景の連続だけが浮かんでくるのは、この時、私はどのような心理過程をたどったのであろうか。
 後年、三島由紀夫の『金閣寺』を読んだ折、炎上する金閣寺を見ながら、放火した青年僧が一種の安らぎを感じている描写を読んで、ふいに、この古い原風景が、私のなかで鮮やかに蘇生した。
 私はあるいは、あの夜、私の街、私の家が焼亡することによって、一切の過去と切断されたのか。私はおぼろ気ながら、私の前に新しいなにかがはじまるであろうという期待のようなものを感じていた。――つまり、私は私の人生がいま眼前に焼亡しつつある情景を原点に新しいなにかがはじまるのではないかと、たいへん無邪気に無自覚のうちにきたいしたのではないか。
 
     ――小川和佑『わが一九四五年 ――青春の記録1』
        (昭和五十年九月・現代教養文庫・社会思想社刊)
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わが一九四五年――3 続、青春の運命
2018/07/31(Tue)
 わが一九四五年
 
 3 続、青春の運命
     ――白鳥の歌――

 
    1
 
 一九四〇年代は、青年の死が最も讃美された時代である。死の思想が精神の強力な支柱となる時代が青年たちにとって幸福であるわけがない。しかし、その死の思想が国家目的のイデオロギーとして集約された時、その美しい死は、欺瞞に満ちた腐臭を放つものとなる。
 しかし、四十年代前半の知的青年たちは、この強制された死に、運命の美学を見ようとした。
     ……  ……  ……
     ……  ……  ……
  堪へがたければわれ空に投げうつ水中花。
  金魚の影もそこに閃きつ。
  すべてのもは吾にむかひて
  死ねという、
  わが水無月のなどかくはうつくしき。
                         (伊東静雄「水中花」)  
 伊東静雄の「水中花」の詩句が時代の渦中で最も強い光芒を放ったのはこの故である。
 この場合、宮野尾文平の戦死が、あと四ヵ月延期されていたらという仮想は成立しない。運命とはそうしたものである。
 宮野尾文平の死に至るまでの過程は、決して、彼が夢想していたような荘厳で美しい死に至る時間でなかったことは、その詩を一読すれば判らされてしまう。美しい死とは、この時代の知的青年たちにの最小の希求をこめた共同幻想であった。
 若き国文学徒松永龍樹の「従軍手帖」は、この共同幻想を失った青年の苦悩の遺書である。この手記は『戦争・文学・愛』(昭43・11、三省堂新書12)収録されている。

    2
 ……  ……  ……
    3
 ……  ……  ……
 その兄(※松永茂雄)の『学徒兵の手記』に答えるものとして書かれたのが、弟龍樹の『従軍手帖』であった。
 ……  ……  ……
 この小さな手帖は一九四〇年を生きた青春の運命の形見である。
 歴史の方向の転換がなければ、私たちもまた、確実に松永茂雄・龍樹兄弟、宮野尾文平たちの運命をたどって、その青春の半ば以上を残して、その生涯を閉じる運命にあったはずだ。そうした苛酷な運命下の時代をなぜ老人たちはよき時代と回想すのであろうか。また、せねばならないのか。
 そして、時代の思想はなぜ、この悪霊の時代を蘇生させようとするのか。老人たちにとって、あの悪しき時代もまた、懐しく美しい季節なのか。強いられた死を讃美された時代を、生き残ったものたちが懐しく回想し、その時代に郷愁さえ見せるということは、許し難い厚顔である。――青年たちが「戦後世代」(※ここでは通常言う「戦後に登場した世代」という意味ではなく、「戦後に生き残った従来の世代」を指しているものと思われる)を否定、あるいは無関心を装うのは、生き残ったものの鈍重さに対する積極的拒絶を論理でなしに情念として感じ取っているからではないか。「昔はものを」の詩抄と、「従軍手帖」はあの八・一五を境界とした、それより以前の私たち少年期の鎮魂歌である。
 ――にもかかわらず、私たちは生きた。決定的瞬間で、私は私の生を全的に私の意志で生きる気権利を与えられた。一九四五年夏を私は忘れない。
 
     ――小川和佑『わが一九四五年 ――青春の記録1』
        (昭和五十年九月・現代教養文庫・社会思想社刊)
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わが一九四五年――2 青春の運命
2018/07/02(Mon)
 わが一九四五年
 
 2 青春の運命
     ――あひみてののちの――

 
    1
 
 私たちよりも、一世代上だった少年たちが、どんな青春をたどったか。――つまり、「雪の巣」における角達二に集約される昭和十年代の少年が生きたその軌跡を私はたどらねばなるまい。八・一五という時点が到来しなかったならば、私たち自身の青春と全く重層化するはずの運命であった。――私たちは映像としてのあの一九四三年十月二十一日の氷雨の神宮競技場の光景を未だ鮮烈に眼底に残している。三万五千名の学徒たちはこの壮行会において雨に打たれながら、「抜刀隊」のマーチの中を行進した。暗い映画館のスクリーンのなかで私はニュース映画の一情景としてそれを見ていた。
  したがって、角達二、津崎優に対する精神の和音というものは、もう少し詳細にいうならば、それは「負」の和音というべきものであろう。しかし、それを明確に自覚したのは八・一五以後である。散華の思想を稚かった私は未だ内なる思想として正確に把握していなかった。
 
    2
 ……  ……  ……
 宮野尾文平は一九二三年(大12)二月十三日生まれ。彼が航空将校として九州太刀洗飛行基地(一説には鹿屋飛行基地ともいう)で昭和二十年春、その生涯を終った折、二十一歳。旧制第三高校二年在学中に応召。――文科学生には徴兵猶予はなく、確か宮野尾が徴兵された年には、徴兵年齢が一年引き下げられていたはずであった。
 ……  ……  ……
 この三篇の詩(※「昔はものを」「喪心の日」「遠日」)から、例えば立原道造、矢山哲治を連想することは容易であろう。
 しかし、宮野尾文平の詩は青春の共通の歌を立原や矢山と唱和しながら、立原、矢山が体験しない苛烈な運命のなかで死んでいる。
 死の一年前に書かれた「昔はものを」が、二十歳という年齢を併せ考えて、いかように優れた抒情詩であろうとも、所詮、宮野尾の詩は習作であろう。詩史の上に再評価すべき詩人ではなく、「戦後三十年」のなかで、私にとっては忘れ難い、そしてそれはまた私の運命であったかも知れぬマイナー・ポーエットなのである。
 ……  ……  ……
 立原の「あひみてののちの」が、原歌の主題をそのモチーフとしていることは、ここで論ずるまでもない。しかし、宮野尾の「昔はものを」は決して恋歌ではない。
 これはまぎれもなく戦後文学、戦後詩の主題に立つものである。限定された青春を生きたものだけが歌える主題である。――私自身に即していえば、あの一九四〇年の後の自閉的な世界における狂的な精神主義、形式主義のなかに身を置いたものには「泥土に汚れる白い靴下を毎日洗って」という詩句の抒情の深さは胸を衝くであろう。思えば、少年の私たちを厳しく幽閉していた精神主義、形式主義、あれらは人間の精神を破砕する残忍で卑劣な愚行の一言に尽きる。
 
     ――小川和佑『わが一九四五年 ――青春の記録1』
        (昭和五十年九月・現代教養文庫・社会思想社刊)
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わが一九四五年――1 一九四五年という夏(4・5・6)
2018/06/09(Sat)
 わが一九四五年
 
 1 一九四五年という夏
     ――わが私的回想のなかで――

 
    4
 
 ――一九五七年。この年の流行女流作家の一冊の短篇集を私は読んだ。
 その書名となった短篇をかつて五四年の雑誌「新潮」十二月号で読んで魅かれていたからであった。 ……  ……  ……
 この「サビタの記憶」の主調音である感傷の底に不思議な、あの時間が凍結されていた。それが私の「私性」を強く揺り動かしたのかも知れぬ。
 この八篇から成る短編集のなかに「雪の巣」を見出した時、私は私と同時代を生きた常民的な少年像を発見した。「雪の巣」のなかの旧制中学生角達二、津崎優は、尨大な歴史の沖積の底に埋没して眠っていた同時代の少年たちにほかならなかった。
 ……  …… ……
 
    5
 ……  …… ……
 一九五六年、この「雪の巣」(昭31・5、「近代文学」)が発表された年、スエズ動乱、ハンガリー動乱にともなうソ連のハンガリー制圧があり、日本は国連に加入した年であった。 ……  …… ……
 しかし、「戦後」という意識は日日に彼方に遠ざかりつつあった。当然、その「戦後」もさらに遠くに位置する「戦中」は既に歴史の過去として、常民の間には意識されかけていた。
「戦後三十年」、時間の推移は他のどの時代よりも、その速度が急速ではなかったのではないか。つまり、それは常民にあっては、過去を可能な限りにおいて速やかに、歴史の時間に封入してしまいたいという共通の黙契があったかにも思われる。
 原田康子氏の「雪の巣」は、そうした時代の状況にあって、あの一九四〇年代の、時代と、その時代の状況を最も敏感に本能的に感じ取って生きていた少年少女を扱ったほとんど、この時点で唯一の作品といってよいものであった。
 ……  …… ……
 
    6
 
 一九四五年、私たち旧制中学生は、中島飛行機製作所に動員された勤労学生であった。工場では「キ-84」型陸軍戦闘機を製作していた。通称「疾風」と呼ばれた陸軍最後の大型戦闘機である。私はその機関砲弾倉を挿入する弾倉滑車という小部品を作らされていた。
 しかし、工場内には太平洋戦開戦当時の緊張はなかった。苛酷な作業日程と、劣悪な管理体制と、続く空襲とによって、慢性的な工員の怠業と、そのしわ寄せが、いつも動員学徒たちに負わされていた。工場は当然のように退廃的な雰囲気に満ちて、虚無的な淫靡さが支配していた。女専、高女の若い娘たちも、この工場には多く動員されて来ていた。彼女たちは制服の上衣にモンペ、そして、日の丸の鉢巻き姿であった。少年の眼にはそれは清楚に映った。しかし、それはいまにして思えば、形骸に過ぎなかったかも知れぬ。私たち少年の仲間にも、誰某と、某高女の生徒とがひそかに交際しているという囁きが、羨望をこめて私語されていた。私たちは、私たちよりも一世代上の青年たちのように虚無的でも絶望的でもなかった。そうした形而上の観念に苦しむにはまだあまりに稚なかったからであろう。その日その日を小動物のように生きていたといった方が正確であろう。
 工場に動員されて、三月目に私は病んだ。私は入院して、絶対安静が続いた。夜毎に空襲があった。爆撃されれば私はベッドの上で手術後の不自由な体で、焼死するべき運命だった。一本の蒼桐と苔づいた高い石塀は、その病室の窓から見た情景なのだった。
 某日、私の病室を郡山女専の小柄な少女が見舞ってくれた。私はその少女と同じ工程の作業場にいたのだった。見舞うといっても、少女は、病院の玄関から廊下づたいに病室を訪れたのではない。病院の裏門から庭伝いに私の病室の窓に立った。そして、窓越しにベッドの私に一言、二言の言葉をかけて、貧弱な、だがその頃はもう貴重な花を窓からサイド・テーブルの上に置いて帰った。その庭は決して日が射さない。晴れているのにいつも夕暮が、薄曇りのような庭に小さな、例のモンペ姿の少女の顔が夕顔のように浮かんでいた。――その花がなんであったか、もう忘れた。少年の私はこの年上の少女の厚意を、感動とは別のまるで異様な一種の不思議な感覚で、卓上の花を眺めていた。少女とは作業上のこと以外にほとんど親しく口をきいたことがなかった。ただ、私はこの少女から電気ドリルの扱い方、リベットの打ち方の手ほどきを受けただけだった。少女も必要以外に私に話しかけようとはしなかった。だから、私は彼女の突然の見舞いが不可思議だったのだ。少女の名は河野矩子といっていた。八・一五を境に彼女たちは故郷に帰っていった。――それだけであった。その少女はたぶん原田康子氏と同じ年頃ではなかったろうか。河野矩子はその少女時代の事故の唐突な行為をもう記憶してはいまい。生きることだけに懸命だった戦後の三十年という歳月が、とうに彼女の最も繊細で敏感だった少女時代の精神をすっかり磨滅させて、いまは生活に根を据えた、そんな感傷の過剰など一片も所有しない東北の中年女性に成り終っているの違いない。
「雪の巣」の角達二や津崎優のような少年体験を私は持たなかったが、その少年像にあの時代を生きた確かな共感があるのは、同じ時代を生きたものだけが共通する感傷からであろうか。――私はそれを否定したい。感傷を所有するには、私は既に人生を行き過ぎている。
 ただ、角達二や津崎優の世界が、かつての十代の私の世界と精神の内部で和音を奏するのだ。――それは歴史の底の埋没してしまった少年たちの抒情歌といってしまえばそれまでなのだが、「雪の巣」をそういう意味で読むことも可能ではないだろうか。
 
     ――小川和佑『わが一九四五年 ――青春の記録1』
        (昭和五十年九月・現代教養文庫・社会思想社刊)
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わが一九四五年――1 一九四五年という夏(3)
2018/05/25(Fri)
 わが一九四五年
 
 1 一九四五年という夏
     ――わが私的回想のなかで――

 
    3
 
 あれから多くの季節、就中多くの夏が、暦のなかを過ぎていった。しかし、それらの夏はたったひとつの夏の比重に及ばない。――ひとはそれぞれ、誰しも人生でそうした季節を所有しているはずで、その季節を負って生きているはずだ。
 少なくとも、十五歳の夏以前の私を含める、日本の常民の少年たちには、未来について語る資格は、当時の国家権力によって剥奪されていた。私たちはまだ青年になるために残されていた残り少ない時間を制限つきで与えられていたに過ぎない。憎悪を籠めて情念的な表現を用いれば、「国家」を僭称する産軍共同権力の維持に供せられるべき無名の要員にしか過ぎなかった。
 一九四五年、私たちは既にほとんど授業を放棄させられていた。その替りに勤労動員という名のもとに成人と同等に近い肉体労働を課せられたていた。教師は極く少数の例外的な最後まで知識人の自覚を辛うじて保持していた数人を除いては、機構の末端にある下級管理者に堕していた。
 当時、動員された工場(中島飛行機製作所,現富士重工)では、十四、五歳の少年たちにも、手当の現物給与として、時折、煙草が支給されたと聞いたら、現代の教育熱心な若い母親たちは、こういう事象を絶対に黙認するまい。少年たちは絶望も悲観もしていなかった。在るがままの現実を素直に生きる以外の生き方を知らなかったから――。彼らは過労と空腹のなかで、喫煙の習慣を覚えた。あたかも、ラテン・アメリカの山地に追い詰められたインディオたちが、その空腹から遁がれるためにコカの葉を嚙むように。
 そうだ。この章の冒頭で私は、盛夏なのに上着を着ていたと書いた。――だがその上着は黒詰衿の学生服ではない。旧制中学生としての制服、制帽を許されたのは入学当時のたった一年だけだった。次に与えられた服装は、黄土色の軍服まがいの制服と軍帽まがいの同色の戦闘帽と称するものであった。全校生徒は集合整列すると、私たちと私たちより一期の少年たちはこの黄土色の集団で、その右側――上級生から下級生へは右から左へという日本的階級秩序の慣例に従って集合していた――からは黒色の制服集団であった。この黄土色の制服は、私たちにとってはいまから予約されていた死衣だったのだ。
 ――これはこの一冊の主題のほかなのだが、私と同世代の教育者たちは、なぜああも少年たちに制服を強要したがるのであろう。彼らにとって、かつての制服に対する忌まわしい原体験はとうの昔に、風化し、解体してしまって、精神に何らの痕跡も留めていないのだろうか。つまり、彼らはなにひとつ、精神の結実をももたらさずにただ喰い、生きたに過ぎなかったのか。しかし、これは単なる末梢的な現象に過ぎない。
 私は私の「私性」に拠る原風景の持続する限り、所謂、平和のなかに生きて来た同世代に深い失望と、ひそかな瞋恚を覚えぬわけにはいかぬ。いまにして思えば、私にとって「国家」とはなにであったのであろうか。十五歳の私に国家は、悉皆死以外のなにものをも与えてくれなかったような気がする。
 
     ――小川和佑『わが一九四五年 ――青春の記録1』
        (昭和五十年九月・現代教養文庫・社会思想社刊)
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わが一九四五年――1 一九四五年という夏(1・2)
2018/04/29(Sun)
 わが一九四五年
 
 1 一九四五年という夏
     ――わが私的回想のなかで――

 
    1
 
 私にとっての記憶の基底部にある原風景は恒時、夏にはじまる。
 先ず、それは貧弱な一本の蒼桐があるばかりで、その向うに日の当たらぬ苔づいた石塀が作る真昼の瞑み――その頃、私は病んでいた。そして、それは病室の窓から見える唯一の情景であった。……とか、または、一本の青い樹木もないセピア色の瓦礫の拡がりのなかでしきりに啼く油蝉の声、やがてその広大なセピア一色の風景の涯に沈む陽。あるいは、土用を過ぎた午前の炎天下で聞かされた「玉音放送」の日の蒼鉛色の、そのくせ暑く湿った夏空の色なのである。
 十五歳の私は、そのとき孟夏の季節の最中なのに上着を着けていた。そこに集められた少年たちのなかで、例外的に私だけが上着を着用し、衿のフックまでかけていたのではない。すべての少年たちが、いちように私と同じような服装をしていたのだった。少年の私たちには軽快な夏衣の着装は許されていなかったのである。
 あれから既に三十余年になる。しかし、これは人生の半ば以上を生きてしまったもの特有の回想癖、回顧趣味とは本質的に意味を異にする。世間的小成功者が辛酸労苦の自己の過去を誇らし気に、また懐しみを籠めて語るスノビズムとは無縁のものだ。それは、いわば、私という「私性」に関わる原風景の主要な部分であり、私の存在の原点の集約だった。
 そして、その原風景を超え得た地点からでなしには、私の少年期というものはあり得ない。
 
    2
 
 現代の青年たちにとって、この私の「私性」に関わる原風景の意味は、はたして、理解されるかどうか、それについて多くの自信を持ち得ない。しかし、私はいま私の生きた時代と精神を語っておかねばならぬ。
 なんのために――。私にとっては「昭和五十年」という半世紀の重量よりも、「戦後三十年」がより重く、深い意味を所持しているからによる。
  たぶん私は、この国の古い精神の核にひそむ呪術者の精神に衝き動かされているのかもしれぬ。シャーマニズムとどこかで癒着した部分で、「語部」的に歴史の彼方の時間を語らされているのかもしれぬ。――私はいま、私が現代の常民に間にまぎれこみ、生き長らえ続けて来た土俗的な「無名の語部」の一人であってもいいはずである。
 しかしながら、それは決して老いた呪術者の呪術に名を藉りた繰り言めいた語り口であってはならぬ。
 一時代を生きた者だけが、その生きた時代を、次の時代に、現象としてではなしに、語り得べき時代の真実として、既に歴史の時間の底辺に埋没してしまったものを、また、語らずして終った沈黙の精神の所産を、そのまま等質に残したかったのだ。
 そのためには、私は意識的に私の内部で抑圧し続けて来た私の「私性」に関わる少年期について、いわばひとつの確信に基づいて、次代の君たちに証言せねばならない。
 それは「戦後三十年」を生きて来たものの責任であろう。

     ――小川和佑『わが一九四五年 ――青春の記録1』
        (昭和五十年九月・現代教養文庫・社会思想社刊)
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憂国忌いくたび
2017/11/25(Sat)
   14年目(昭和59年)の「憂国忌」――三島由紀夫再び
 
 三島由紀夫が遺作『天人五衰』の最終章の初夏の月修寺の描写を書き終えたのは一九七〇年(昭和四十五年)の十一月二十五日の夜明だった。その日、衝撃の作家の自決が行われた。
 あれからもう十四回目のその日が廻って来た。「狂気の沙汰」と評した中曽根防衛庁長官は現在では支持率五〇%以上の内閣首班の二期目に入る。遥かな時間はまことに三島の『豊饒に海』の主題のごとく輪廻転生を思わせて、改めて学生の間に三島文学再評価の気運を感じさせる。
 ――というのはほかでもなく、この七月から十月にかけて開かれた東大・中大生を中心にした三島由紀夫研究会が、文学離れといわれている現代の学生の関心を集めて、思いもかけず多数の若い聴講者を集めたことだった。この連続講演の第一回の演壇に上がって、三分の一を占める女子学生の数も、十四年を経て行動的思想家三島由紀夫像から、本来の作家三島由紀夫像に回復したという感を深くした。没後のさまざまな政治的・思想的な批判と思惑を捨象して、再び作家の三島由紀夫像が若い読者の関心を呼んだのは、講演の後の座談会での発言によれば、三島由紀夫の小説戯曲に現代の小説からは失われた文学を初めて教えられたという意見が多かった。
 二十歳前後の学生たちにとって三島事件はほとんどなんお精神的痕跡も残してはいない。学生運動の完全に失速してしまったいまの時代、学生たちが三島の「金閣寺」や「鹿鳴館」にたどり着いたのは、政治的・思想的な動機からではなく純粋に文学的動機からであった。
 個性のない文体でいくら日常的な小市民の意識を語ろうとも、それがいかにテレビ化、映画化されようとも、学生たちの読者にとっては全くそれは魅力を感じないのだという。つまり、文学らしい文学への渇望が自ずと三島由紀夫の作品に到達したという見解が自然だろう。学生の保守化、右傾化という次元の問題ではない。『春の雪』や『奔馬』になにかを観ようとしているならば、日常と癒着して、それを唯一の存在感と考えている現代の小説に対する批判と抗議の結果なのだった。
 彼らが三島作品を改めて読むということは一部の思想家の考えている「憂国」とは完全に断ち切られている。もしも十四年祭の「憂国忌」を契機に新しい三島ブームというものが起こり得たならば、それは政治と思想に向けられたものではなく、現代の作家へ向けての読者の厳しい意志の表明である。
 三島・高橋和巳以後の作家たちは、小説がなによりも文学であるというきわめて常識的な原理を見失ってはいなかったか。若者文化を軽蔑しながら、それにおもねり接近していった報復をいま学生の読者層から手厳しく受けているということが現実である。
 例えば、三島由紀夫の古典理解と同等以上に古典を語ることのできる新進作家が皆無なことを学生たちは知っている。ブランド商品や食味の知識など、彼らにとっては軽蔑の対象であっても、作家への信頼や畏敬への念には繋がらない。それを充分認識しているから、あえて新進作家の小説が文庫本に入ろうとも手にしないだけである。
 しかし、この三島由紀夫への学生たちの再発見は文学の回復というだけではない側面を有している。六〇年代を通じて三島の時代というものは高橋和巳の存在という二つの極によって成立していた
 三島・高橋。あるいは三島・大江(※初出では「吉本」)でもよい、そうした二極の上に三島由紀夫の作品が存在していたが、八〇年代の三島の場合に一方に極が不在なのだ。それはきわめて危険な形ともなりかねない。
 若い読者のこの三島文学再発見の動きを八五年の文学へつないで、今後とも注意深く見守り続けてゆきたい。
 
   〈初出〉昭和五九(一九八四)年一一月二八日「毎日新聞」(夕刊)
     ――小川和佑「三島由紀夫―反『日本浪曼派』論」
        「あとがき」より
        (昭和六〇年四月・林道舎)
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誄 辞――憂国忌十年祭に
2017/11/23(Thu)
 自己の思想を自決という日本的な美意識のうちに具現、完結して見せたこの稀有の作家が逝って既に十星霜。
 その間、作家を語る多くの言葉が捧げられたが、誰が果してその美、その真実をよく語り得たか。
 多くの言葉の以前に、作家は作品によってのみ語るを得る。聴け、耳を傾けよ。
 数万の語を費して作家三島由紀夫を讃美するを罷めよ。
 黙していまこそ聴け。少年の日の詩の一行。青年の日の小説、あるいは壮年の日の劇の一節を。作家の語る声にて聴け。
 その危険に満ちた文学は少しも損なわれることなく確かにきょう、われわれが耳底に蘇る。
 一人の同時代者として、われらは作家の生涯を見届けた。過ぎ去った歳月、遥かな時間が再びわれらに呼びかける声となる。
 われらが超克せねばならぬ時代を作家は生きた。そして、自らの手でその生涯を閉じることによってわらえらの意志を峻拒した。
 われらは語ってはならぬ。而して、拒んではならぬ。ただ黙して聴け。作家三島由紀夫の語った言葉を。
 
     (昭和五十五年十一月二十五日)
     ――小川和佑「三島由紀夫―反『日本浪曼派』論」
        巻頭の献辞より
        (昭和六十年四月・林道舎)
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小川和佑先生の言葉
2017/11/11(Sat)
 小川和佑ゼミナールOB会誌『小川のせせらぎ』第1号(平成28年4月29日発行)所収の冊子版『小川和佑先生著書目録』では、先生の文章を極力引用・転載しようと思っていました。実際、第一回はそのように編集しましたが、第二回からは、書誌的な解題を兼ねて紹介する文章を除いて、これぞと思う言葉は『著書目録』から独立させて、あらためて別に『小川和佑先生の言葉』としてまとめて掲載することにしました。いわば、小川和佑名言集です。
 本当は該当の書籍を実際に手に取って読んでもらうのが一番いいのですが、現在ではなかなか手にすることができないと思いますので、せめて抜粋でも抜き出すことにします。あくまでも抜粋ですが、なるべく省略せずに載せたいと思います。
 どうせならテーマ別に編集したいところですが、差し当たりはランダムに転記します。すでにこのブログ版でも、「小川和佑先生の言葉」というカテゴリにまとめています。どうぞ、じっくりとお読みください。味わい深いこと保証します。清冽です。
  
 なお、明らかな誤植は特に断りなく訂正しました。また、省略により前後の意味が通じにくい所は、( )内に教科書体(ブログ版では斜体)の文字で補いました。
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