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憂国忌いくたび
2017/11/25(Sat)
   14年目(昭和59年)の「憂国忌」――三島由紀夫再び
 
 三島由紀夫が遺作『天人五衰』の最終章の初夏の月修寺の描写を書き終えたのは一九七〇年(昭和四十五年)の十一月二十五日の夜明だった。その日、衝撃の作家の自決が行われた。
 あれからもう十四回目のその日が廻って来た。「狂気の沙汰」と評した中曽根防衛庁長官は現在では支持率五〇%以上の内閣首班の二期目に入る。遥かな時間はまことに三島の『豊饒に海』の主題のごとく輪廻転生を思わせて、改めて学生の間に三島文学再評価の気運を感じさせる。
 ――というのはほかでもなく、この七月から十月にかけて開かれた東大・中大生を中心にした三島由紀夫研究会が、文学離れといわれている現代の学生の関心を集めて、思いもかけず多数の若い聴講者を集めたことだった。この連続講演の第一回の演壇に上がって、三分の一を占める女子学生の数も、十四年を経て行動的思想家三島由紀夫像から、本来の作家三島由紀夫像に回復したという感を深くした。没後のさまざまな政治的・思想的な批判と思惑を捨象して、再び作家の三島由紀夫像が若い読者の関心を呼んだのは、講演の後の座談会での発言によれば、三島由紀夫の小説戯曲に現代の小説からは失われた文学を初めて教えられたという意見が多かった。
 二十歳前後の学生たちにとって三島事件はほとんどなんお精神的痕跡も残してはいない。学生運動の完全に失速してしまったいまの時代、学生たちが三島の「金閣寺」や「鹿鳴館」にたどり着いたのは、政治的・思想的な動機からではなく純粋に文学的動機からであった。
 個性のない文体でいくら日常的な小市民の意識を語ろうとも、それがいかにテレビ化、映画化されようとも、学生たちの読者にとっては全くそれは魅力を感じないのだという。つまり、文学らしい文学への渇望が自ずと三島由紀夫の作品に到達したという見解が自然だろう。学生の保守化、右傾化という次元の問題ではない。『春の雪』や『奔馬』になにかを観ようとしているならば、日常と癒着して、それを唯一の存在感と考えている現代の小説に対する批判と抗議の結果なのだった。
 彼らが三島作品を改めて読むということは一部の思想家の考えている「憂国」とは完全に断ち切られている。もしも十四年祭の「憂国忌」を契機に新しい三島ブームというものが起こり得たならば、それは政治と思想に向けられたものではなく、現代の作家へ向けての読者の厳しい意志の表明である。
 三島・高橋和巳以後の作家たちは、小説がなによりも文学であるというきわめて常識的な原理を見失ってはいなかったか。若者文化を軽蔑しながら、それにおもねり接近していった報復をいま学生の読者層から手厳しく受けているということが現実である。
 例えば、三島由紀夫の古典理解と同等以上に古典を語ることのできる新進作家が皆無なことを学生たちは知っている。ブランド商品や食味の知識など、彼らにとっては軽蔑の対象であっても、作家への信頼や畏敬への念には繋がらない。それを充分認識しているから、あえて新進作家の小説が文庫本に入ろうとも手にしないだけである。
 しかし、この三島由紀夫への学生たちの再発見は文学の回復というだけではない側面を有している。六〇年代を通じて三島の時代というものは高橋和巳の存在という二つの極によって成立していた
 三島・高橋。あるいは三島・大江(※初出では「吉本」)でもよい、そうした二極の上に三島由紀夫の作品が存在していたが、八〇年代の三島の場合に一方に極が不在なのだ。それはきわめて危険な形ともなりかねない。
 若い読者のこの三島文学再発見の動きを八五年の文学へつないで、今後とも注意深く見守り続けてゆきたい。
 
   〈初出〉昭和五九(一九八四)年一一月二八日「毎日新聞」(夕刊)
     ――小川和佑「三島由紀夫―反『日本浪曼派』論」
        「あとがき」より
        (昭和六〇年四月・林道舎)
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誄 辞――憂国忌十年祭に
2017/11/23(Thu)
 自己の思想を自決という日本的な美意識のうちに具現、完結して見せたこの稀有の作家が逝って既に十星霜。
 その間、作家を語る多くの言葉が捧げられたが、誰が果してその美、その真実をよく語り得たか。
 多くの言葉の以前に、作家は作品によってのみ語るを得る。聴け、耳を傾けよ。
 数万の語を費して作家三島由紀夫を讃美するを罷めよ。
 黙していまこそ聴け。少年の日の詩の一行。青年の日の小説、あるいは壮年の日の劇の一節を。作家の語る声にて聴け。
 その危険に満ちた文学は少しも損なわれることなく確かにきょう、われわれが耳底に蘇る。
 一人の同時代者として、われらは作家の生涯を見届けた。過ぎ去った歳月、遥かな時間が再びわれらに呼びかける声となる。
 われらが超克せねばならぬ時代を作家は生きた。そして、自らの手でその生涯を閉じることによってわらえらの意志を峻拒した。
 われらは語ってはならぬ。而して、拒んではならぬ。ただ黙して聴け。作家三島由紀夫の語った言葉を。
 
     (昭和五十五年十一月二十五日)
     ――小川和佑「三島由紀夫―反『日本浪曼派』論」
        巻頭の献辞より
        (昭和六十年四月・林道舎)
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人を愛することの意味
2017/10/14(Sat)
伴侶としての性と愛
 この「伴侶としての性と愛」というフレーズはそこに「人生の」という語が冠せられる。
 性と愛を抜きにして人の生涯は考えられないし、またそれが人生の意味の多くを占めるたいせつな要素であることも言うまでもない。
 ……  ……
 この現代の経済社会はいま文化の反省期なのだ。その反省期は「人間として」という強烈な意志において検証されねばならない。そのためには「伴侶としての性と愛」が新たに正面に提出された課題として重い意味を持って来る。
 この問題はかつて高橋和巳が長編『悲の器』で提示していた。法学者正木典膳の破滅の人生は性と愛とに操られている。生涯にただ一度の愛のために、あらゆる妥協を排して破滅を急ぐこの法学者の姿に、いま現代の性と愛をいかに考えるかが改めて提示されたきわめて良質なテキストとしての意味を持っている。
 ……  ……
東歌のなかの性と愛
 二本松市の郊外、かつての三春街道十字路に江戸後期の万葉歌碑がある。……  ……
  安太多良の
  嶺に伏す鹿猪のありつつも
  吾は到らむ
  寝処な去りそね
 安達太良山にやどる獣のように、私はいつもきまってお前を訪れよう。だから寝処を変えるなよ。――とまあ、こんな意味である。……  ……
 東歌には多くの民謡が収録されているからこれも民謡だと考えれば、これは労働歌ではなかったろうか。苦しい労働のおり、心を励ますためにいまでもエロチックな歌などを歌って女たちに嬌声を挙げさせ、それを活力に男たちは労働の苦痛に堪えるという光景は現在で続いている。
 ……  ……
 ここでは「性」がごく自然に生産と労働の中に組み込まれている。その「性」には影がない。……  ……
  上つ毛野
  阿蘇のま麻むら かき抱き
  寝れども飽かぬを
  あどか我かせむ
 ……  ……
 これも元来は民謡だろう。「上つ毛野」が労働歌なら「安太多良の」と少しその質が違って、ここでは「性」は自らを鼓舞するために歌われている。……  ……
 ……  ……
 古代人の「性」は現代人のそれのように病んではいない。「伴侶としての性」はいつも労働・生産を活性化させる「性」である。「上つ毛野」の歌では「性」は歓喜であっても惑溺ではない。
 しかし、現代の「性」は古代の「性」のようにもう生産と一元化される要素を失っている。それは不毛の性としか呼びようもないほど荒廃したものである。問題はそれなのだ。現代人はもう一度、生産・労働・性の回路を回復させる必要はないか。
『悲の器』のように破滅へ向かって滑降する「性」ではなく、調和と上昇を志向する「性」を必要としてはいないだろうか。現代の男性たちはこの辺で、古代の「性」の原点にもどり意識そのものを変革しなくてはならない時期に至っているようだ。
 しかし、それだけではない。東歌だけで古代人たちの精神生活の総てを考えることも、危険である。東歌の中にはしきりに「し」という形容詞が多く使われている。
  多摩川に さらす手作り
  さらさらに
  なぞにこの子の
  ここだ愛しき
 
  我が恋は
  まさかも愛し 草枕
  多胡の入野の
  奥も愛しも
  (原文にはふりがなと語釈付き)
 ここではもう「性」は「愛」に昇華されている。「愛」という漢字(外来語)を「かなし」と訓ませた『万葉集』の表記者は、もうこれは詩人そのものであろう。
人麻呂歌に見る「愛し」
 その頂点が人麻呂歌ではなかったか。『万葉集』巻二の挽歌収められた「柿本朝臣人麻呂・妻死にし後に、泣血愛慟して作る歌二首 併せて短歌」にそれを見ることが出来る。
  秋山の
  黄葉を茂み 惑ひぬる
  妹を求めむ
  山道知らずも
 死者の魂は山に還るという。大和は四辺を山門に囲まれている。山に還った妻の魂を求めて黄葉した秋の山に迷い入る嘆きながら私なのだと、人麻呂は歌う。これは「愛し」の頂点である。……  ……
 この思いの深さに較べれば現代の愛と呼ばれているものがひどく軽薄に見えて来ないか。もっとも、現代の男性たちはとても気恥ずかしくて「愛」などと口に出してはいえないという一面はよく分かる。どうも古い意識の中には人生を仕事だげに鈍化して、一種の衆道者的精神を理想としている男性たちが多い。「愛」や「性」などというものは仕事の疲労回復剤の一種くらいに考えている。そこに人間としての欠陥があることをまるで気づいていない。……  ……
 ……  ……
 人麻呂歌は巻中の「石見国自傷歌」で挽歌の部を閉じる。
  鴨山の
  岩根しまける 我れをかも
  知らにと妹が
  待ちつつあらむ
 この歌には「柿本朝臣人麻呂 石見の国に在りて死に臨む時に、自ら傷みて作る歌一首」という詞書がついている。
 梅原猛の『水底の歌』によって、にわかに注目された歌だ。……  ……
 ……  ……
 ……  ……歌の意は「鴨山の岩を枕にして死んでゆこうとする我。その非業の死を知らずに妻はわが帰りを待ちつつあるだろうよ。」である。「岩根しまける」を行路死ととるか、刑死ととるかが解釈の分かれ目なのだが、いずれにしても自然死ではない死を「岩根しまける」に籠めている。それを水死刑と考えた梅原説はこの歌の凄愴を詩的に増幅すものだった。
 この歌は「愛し」の最極限下に歌われている。「知らにと妹が待ちつつあらむ」という下の句に、人麻呂の石見妻の依羅娘子の「愛の絶対」が彼には信じられている。こうなると、この「愛」は「性」から切り離されて心性そのもになっている。妻の「絶対の愛」と等質な「愛」を彼もまた所有しているからこそ「岩根しまける我れをかも」と嘆くのである。
 この「愛」の形は希釈されてしまった日常の次元ではなかなか見え難い。しかし、それが詩に昇華されたとき、その見え難いものがはっきり見えて来る。それが文学の最大の効用だといえる。それにしても、現代人のなん人が果して「知らにと妹が待ちつつあらむ」と歌いきれる自信を持っているだろうか。
 いま人間の精神は魂の空洞化、荒涼化の中で限りなく解体を急いでいる。復古主義という意味ではなく人麻呂歌再読の必要性は魂の回復のために必要ではないか。
 現代人がその人生の総てを仕事において純化しようと意志して来たことは、確かに近代の出発以来の大きな経済水準の格差から来る貧困から脱出するを得た。しかし、一方で考えて見ればその純化の志向は物的充足に対する熾烈な執着といえないこともない。
 物的価値観から見れば「万葉の性と愛」など取るに足らぬかも知れぬ。――が、それでは人間としての存在そのものはどうなのだと問いたい。荒野の時代だからこそ「伴侶としての性と愛」の意味は重い。
 極限すれば「愛し」を分らぬ人間に信がおけぬのだ。
 
     ――小川和佑『生きがいの再発見 名著22選』
        「3 伴侶としての愛と性――生の原点としての」
        「万葉集――人を愛することの意味」より
        (一九八五年二月・経林書房)
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盛夏の太陽――詩的体験としての
2016/05/09(Mon)
 かつて、静雄詩の最初の発見者であり、昭和十年代の特異な思想家であった保田與重郎は「詩情する事情の悲しい事実に於いてのみ詩人は詩人と出会した。今さういふ事実をのみ知ると広告せねばならぬ。」と言った。そして、さらに「彼は詩情でものを見たのではない、詩情でものを測ったのではない。風情を詩概念に一度もはめこんでゐない。」とも言った。
 静雄の「曠野の歌」には人を激情させるものがある。しかし、その激情は暗鬱な激情と呼ぶべきものである。
 私自身の詩的体験に即していえば、今となっては遥かな十代の半ば、一冊のアンソロジーの中にこの「曠野の歌」を発見した折り、暗鬱な激情に駆られた思いがある。それは保田與重郎的表現にしたがえば「詩情する事情の悲しい事実に於いてのみ詩人は詩人と出会する。」というのにも似た衝撃であった。
  わが痛き夢よこの時ぞ遂に
  休らはむもの!
 それは中原中也の詩、三好達治の詩から受ける詩的共鳴とはまったく異なるものであった。あのまろやかに柔らかく心を包みこむ甘美な抒情の陶酔を、この「曠野の歌」は与えてはくれなかった。
 私はあの時、その暗鬱の激情から遁れようと、手にしたアンソロジーを部屋の片隅に放置したはずだった。にもかかわらず、その一句「わが痛き夢よ」という言葉が、私にさまざまな幻覚を与えた。その言葉は奇妙に詩的具象をともなわず、ただ真夏の苛烈な白熱した陽光のように、瞼の裏にいつまでも消えずに残っていることに、言いようもない苛立たしさを覚えていた。
 伊東静雄の一連の詩は、西脇順三郎の『Ambarvalia』のギリシア的明解さ、清涼感と較べた時、いかにも晦渋で詰屈していた。
 あの頃、日本の都市という都市はすべて焼土の荒野だった。私はその焼土に月光の射しこんでくる焼トタンの小屋に、藁を敷き、欠けた皿に魚油を点し、乏しい夕餉をとる毎日だった。藁の中に体を沈めると、その小さな小屋の中に月光は明るい縞を作った。――このまま眠る。そのまま次の朝がきても、もう私の目覚めは二度となくてもよいと思った。
 しかし、私は藁の中できまって、重い朝の目覚めを感じるのだった。そして、その一日の終わりに、大きな太陽は茶褐色一色の荒野に揺るぎながら沈む。私はそういう太陽を飽かずに眺め、きょうも一日生きたと思った。
 生きたという実感はあっても。それに少しの歓びもともなってはいなかった。私が伊東静雄の詩に出逢ったのは、そういう少年の夏であった。
 あれから幾度もの夏が、過ぎていった。その間に茶褐色の荒野は再び街になり、街の涯に沈む夕日はいつか見られなくなった。われは私の「痛き夢」だった。私はいつも「曠野の歌」を忘れようと思い、そう思うことで、いっそう静雄の詩を意識し続けなければならなかった。
 あれからの長い歳月の中で、私の手元にはいつの間にか『反響』『わがひとに与ふる哀歌』『詩集夏花』『春のいそぎ』の順で積み重ねられていった。
 静雄の「痛き夢」は、異質の文化に生きることを余儀なくされた者の拒絶と孤立の中から生まれた精神世界の所産であったのに違いない。大阪という物質優位の風土にあって、なおかつ生きねばならぬとすれば、夢位に集約される精神の純粋さだけがわずかに生の均衡を形作る手段であった。
 私にとっての静雄の詩の「痛き夢」は、いつも盛夏の季節と結びついている。激しく照り返す蒼鉛色の強烈な日射しの中にひとつの影がふと浮かぶように、その影をかすかな眩暈と感じながら、いつまでも凝視し続けるようなそんな情感が、伊東静雄という詩人の名を思い出す毎に湧いてくる。
 その場合、脳裏に浮かんでくるのは、決まって、
  わが死せん美しき日のために
  連嶺の夢想よ! 汝が白雪を
  消さずあれ
という「曠野の歌」の冒頭の詩句であった。
 
     ――小川和佑『伊東静雄 孤高の抒情詩人』
        「第3章―創造者への自覚」より
        (昭和五五年七月・講談社現代新書)
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わが内なる「四季」体験
2014/08/23(Sat)
 もう一度、原点に回帰するような形で、『堀辰雄―作家の境涯』を一冊にまとめた。さて、この新しい自著をわが机上に置いてみると、いまとなってはいかにも気恥かしいのだ。
 三十歳を越えてから、実は堀、立原を口にする際、一種の心理的抵抗を覚えはじめて、それが年とともに深まっていった。そういう心理の詰屈が私に詩を捨てさせた。詩に未練がなかったわけではない。しかし、敢えて詩を捨てることで、いわば自己の内部に形成された「四季」的体験を清算したかった。
 その頃、私は篤実な生活者になりたかった。政治や文学と切り離された地点で平穏に日常を繰り返し、生活的現実を確実に歩んでいる生活者をひどく羨望していた。――そして、そうした生活者の平衡感覚が欠落している自己の性情を矯正しようとした。
 ちょうどその頃、私の職場では岩石ブームと熱帯魚ブームが起っていた。しかし、またして私はこの市民社会の流行について行けない自分を発見した。ボーリングも、ゴルフも同じであった。不器用さもあるが、一度少年期に覚えた文学の魅力に比較すると、生活者を熱中させる流行の趣味も私にとっては、時代の風俗以上のものではなかった。
 ……  ……
 これを最後にして、当分私は十代のなかば、柔らかい心を一撃したこの作家と訣別しようと思う。
 ……  ……
 今年の夏も軽井沢は新宿や渋谷、原宿並の雑踏とにぎわいを見せるだろう。
 風俗の形で堀、立原、カルイサワのブームが軽井沢開発一〇〇周年に当って観光資源とファッション産業を中心に形成されるだろう。そういう雰囲気のなかで堀、立原が読者、ことに若い女性の読者に流通するのは、どうでもよいことだが、やはりどこかに抵抗感がある。これは「四季」体験の後遺症だというべきだが、ともあれ、この一冊を終れば、私の十代からの長かった「四季」遍歴もいちおう終りを告げる。
 それはめまいを覚えるほどの深い疲労感をともなう昨年の夏であった。
 ……  ……
 旧著から七年間、私にとっては必要以上に長い時間の持続と思われた。
   昭和六十一年 早春
 
     ――小川和佑『堀辰雄―作家の境涯―』
        「わが内なる『四季』体験――あとがきにかえて」
        (一九八六年四月・丘書房)
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