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『文明開化の詩』
2016/05/15(Sun)
【書名】文明開化の詩
【発行日】昭和五五(一九八〇)年一〇月二五日
【発行所】叢文社
【体裁】四六判上製、丸背黄色クロース厚表紙、カバー装。
【頁数】二五七頁
【定価】一五〇〇円
【目次・内容】
1 詩的なるものとの遭遇
   日常のなかの詩   詩を感じるとき
   クラウディウスの「五月の歌」   幕末の知識人
2 西方からの声
   西洋詩の衝撃   讃美歌の和訳
   詩的空間としての讃美歌   敗者の復権――奥野昌綱の場合
   西方からの歌声
3 開花思想とナショナリズム
   少年鼓手の文明開化   俗謡改良としての「小学唱歌」
   近代抒情詩の源流   里見義の「庭の千草」
   「蛍」のおけるナショナリズム
4 啓蒙としての民権歌謡
   歌え、自由民権㈠   歌え、自由民権㈡
   不可志の夢   『小学唱歌』と『民権歌謡』の接点
5 実験詩『新體詩抄』
   新帰朝者戸山正一   詩的実験としての「新体詩」
   アイディア盗用『新體詩歌』
   トマス・グレーの「墓畔の哀歌」   正直正太大、哄笑す
6 詩のなかの精神史㈠
   西南戦争の衝撃――勝者の頌歌
   敗者の悲歌としての「孝女白菊の歌」   落合直文の新体詩
   「孝女白菊の歌」の読まれ方
7 詩のなかの精神史㈡
   二つの「君が代」   文部省と海軍省の抗争
   キリスト者の声――詩集「十二の石塚」
   『新撰讃美歌』の完成
8 新しき詩歌の時代へ
   『於母影』抒情   開化の女学生――新しい読者層の形成
   明治望郷歌㈠   明治望郷歌㈡
9 エピローグ―近代詩の光と影
   抒情詩の時代   北村透谷の死
   科学技術讃歌――『鉄道唱歌』
 明治詩史年表(二三七~二四六頁)
 参考文献(二四七~二五五頁)
 あとがき
【解題】
 小川和佑五〇歳、渾身の長編文芸評論、近代詩史論である。日本の近代詩の成り立ちを、その黎明期以前の、幕末に翻刻された西洋詩、讃美歌の和訳、小学唱歌、自由民権運動の歌謡から、そして『新體詩抄』、西南戦争の衝撃、〝国歌〟「君が代」の成立過程、『於母影』の抒情、北村透谷の死、鉄道唱歌の流行などを通して解き明かす。
 その場合、従来ほとんどの詩史が制作者の立場で論じられているが、読者の視点、受容者の立場から文明論的に考察されているのが大きな特徴であり、明治日本人の精神の問題から解き明かされているのが真骨頂である。

 木版刷の『神戸版無題讃美歌集』や『小学唱歌集』から藤村の『若菜集』に至るまでの新体詩の草創期の詩集と文献コピーに埋れて五年間過ごした。一九六八年(昭43)の前後から七二年(昭47)にかけてである。
 カードを作り、コピーや切抜きを整理しながら、これらの詩集や文献を読んで行く過程で、次第に通史の中の文明開化の時代とは異なった視点からこの時代を観ている自分に気づいた。
 新体詩はまぎれもなく明治の文明開化がもたらした新文学であった。この新体詩の出現によって日本の詩歌は深く変わった。これは単なる新文学の出現という文学的な現象による変化ではない。それ以上に人間的な変化、つまり、ものの考え方、感じ方、それらのすべてを通じて、人間の在り方や生き方がそれ以前と以後では大きく変わったという意味においてである。
 西洋の詩、あるいは詩的なるものとの遭遇によって、そこにさまざまなその後の劇的人生が文明開化という時代を背景に展開した。そして、それを主導し、推進したものが士族たちだった。新体詩の歴史はまた士族たちの精神史ともいえる。ここではこれらの士族の精神史を通じて、近代詩史の通説が取り落した詩の時代を書いて見たかった。
(後略)                 ――「あとがき」


 巻末に、詳細な明治詩史年表と参考文献が付されている。今日のようなインターネットの時代ならこうしたものを検索したり調査することは、根気さえあれば容易であるかもしれないが、まだコンピュータが出現する前の時代である。どうやって調べたのかと驚嘆する。大学の研究室や自宅の書斎に閉じこもっていて調べられるようなものではない。文献の中身を調査する以前に、その当時でもすでに散逸している文献を集めることから始めなければならない。駒場にようやく近代文学館が設立されたばかりの当時である。
「カードを作り、コピーや切抜きを整理しながら」と言うが、繰り返すがパソコンのない時代であり、それがどれだけ大変なことだったことか。
 しかし、そうした気の遠くなるような地道な作業があってはじめて一冊の評論が成っているわけである。後年先生から聞いた話では、こうした作業も「楽しかったなあ」ということである。
☆西山蔵書
※補完:2018/01/11(Thu)/2018/07/02(Mon)
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盛夏の太陽――詩的体験としての
2016/05/09(Mon)
 かつて、静雄詩の最初の発見者であり、昭和十年代の特異な思想家であった保田與重郎は「詩情する事情の悲しい事実に於いてのみ詩人は詩人と出会した。今さういふ事実をのみ知ると広告せねばならぬ。」と言った。そして、さらに「彼は詩情でものを見たのではない、詩情でものを測ったのではない。風情を詩概念に一度もはめこんでゐない。」とも言った。
 静雄の「曠野の歌」には人を激情させるものがある。しかし、その激情は暗鬱な激情と呼ぶべきものである。
 私自身の詩的体験に即していえば、今となっては遥かな十代の半ば、一冊のアンソロジーの中にこの「曠野の歌」を発見した折り、暗鬱な激情に駆られた思いがある。それは保田與重郎的表現にしたがえば「詩情する事情の悲しい事実に於いてのみ詩人は詩人と出会する。」というのにも似た衝撃であった。
  わが痛き夢よこの時ぞ遂に
  休らはむもの!
 それは中原中也の詩、三好達治の詩から受ける詩的共鳴とはまったく異なるものであった。あのまろやかに柔らかく心を包みこむ甘美な抒情の陶酔を、この「曠野の歌」は与えてはくれなかった。
 私はあの時、その暗鬱の激情から遁れようと、手にしたアンソロジーを部屋の片隅に放置したはずだった。にもかかわらず、その一句「わが痛き夢よ」という言葉が、私にさまざまな幻覚を与えた。その言葉は奇妙に詩的具象をともなわず、ただ真夏の苛烈な白熱した陽光のように、瞼の裏にいつまでも消えずに残っていることに、言いようもない苛立たしさを覚えていた。
 伊東静雄の一連の詩は、西脇順三郎の『Ambarvalia』のギリシア的明解さ、清涼感と較べた時、いかにも晦渋で詰屈していた。
 あの頃、日本の都市という都市はすべて焼土の荒野だった。私はその焼土に月光の射しこんでくる焼トタンの小屋に、藁を敷き、欠けた皿に魚油を点し、乏しい夕餉をとる毎日だった。藁の中に体を沈めると、その小さな小屋の中に月光は明るい縞を作った。――このまま眠る。そのまま次の朝がきても、もう私の目覚めは二度となくてもよいと思った。
 しかし、私は藁の中できまって、重い朝の目覚めを感じるのだった。そして、その一日の終わりに、大きな太陽は茶褐色一色の荒野に揺るぎながら沈む。私はそういう太陽を飽かずに眺め、きょうも一日生きたと思った。
 生きたという実感はあっても。それに少しの歓びもともなってはいなかった。私が伊東静雄の詩に出逢ったのは、そういう少年の夏であった。
 あれから幾度もの夏が、過ぎていった。その間に茶褐色の荒野は再び街になり、街の涯に沈む夕日はいつか見られなくなった。われは私の「痛き夢」だった。私はいつも「曠野の歌」を忘れようと思い、そう思うことで、いっそう静雄の詩を意識し続けなければならなかった。
 あれからの長い歳月の中で、私の手元にはいつの間にか『反響』『わがひとに与ふる哀歌』『詩集夏花』『春のいそぎ』の順で積み重ねられていった。
 静雄の「痛き夢」は、異質の文化に生きることを余儀なくされた者の拒絶と孤立の中から生まれた精神世界の所産であったのに違いない。大阪という物質優位の風土にあって、なおかつ生きねばならぬとすれば、夢位に集約される精神の純粋さだけがわずかに生の均衡を形作る手段であった。
 私にとっての静雄の詩の「痛き夢」は、いつも盛夏の季節と結びついている。激しく照り返す蒼鉛色の強烈な日射しの中にひとつの影がふと浮かぶように、その影をかすかな眩暈と感じながら、いつまでも凝視し続けるようなそんな情感が、伊東静雄という詩人の名を思い出す毎に湧いてくる。
 その場合、脳裏に浮かんでくるのは、決まって、
  わが死せん美しき日のために
  連嶺の夢想よ! 汝が白雪を
  消さずあれ
という「曠野の歌」の冒頭の詩句であった。
 
     ――小川和佑『伊東静雄 孤高の抒情詩人』
        「第3章―創造者への自覚」より
        (昭和五五年七月・講談社現代新書)
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