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わが一九四五年――1 一九四五年という夏(4・5・6)
2018/06/09(Sat)
 わが一九四五年
 
 1 一九四五年という夏
     ――わが私的回想のなかで――

 
    4
 
 ――一九五七年。この年の流行女流作家の一冊の短篇集を私は読んだ。
 その書名となった短篇をかつて五四年の雑誌「新潮」十二月号で読んで魅かれていたからであった。 ……  ……  ……
 この「サビタの記憶」の主調音である感傷の底に不思議な、あの時間が凍結されていた。それが私の「私性」を強く揺り動かしたのかも知れぬ。
 この八篇から成る短編集のなかに「雪の巣」を見出した時、私は私と同時代を生きた常民的な少年像を発見した。「雪の巣」のなかの旧制中学生角達二、津崎優は、尨大な歴史の沖積の底に埋没して眠っていた同時代の少年たちにほかならなかった。
 ……  …… ……
 
    5
 ……  …… ……
 一九五六年、この「雪の巣」(昭31・5、「近代文学」)が発表された年、スエズ動乱、ハンガリー動乱にともなうソ連のハンガリー制圧があり、日本は国連に加入した年であった。 ……  …… ……
 しかし、「戦後」という意識は日日に彼方に遠ざかりつつあった。当然、その「戦後」もさらに遠くに位置する「戦中」は既に歴史の過去として、常民の間には意識されかけていた。
「戦後三十年」、時間の推移は他のどの時代よりも、その速度が急速ではなかったのではないか。つまり、それは常民にあっては、過去を可能な限りにおいて速やかに、歴史の時間に封入してしまいたいという共通の黙契があったかにも思われる。
 原田康子氏の「雪の巣」は、そうした時代の状況にあって、あの一九四〇年代の、時代と、その時代の状況を最も敏感に本能的に感じ取って生きていた少年少女を扱ったほとんど、この時点で唯一の作品といってよいものであった。
 ……  …… ……
 
    6
 
 一九四五年、私たち旧制中学生は、中島飛行機製作所に動員された勤労学生であった。工場では「キ-84」型陸軍戦闘機を製作していた。通称「疾風」と呼ばれた陸軍最後の大型戦闘機である。私はその機関砲弾倉を挿入する弾倉滑車という小部品を作らされていた。
 しかし、工場内には太平洋戦開戦当時の緊張はなかった。苛酷な作業日程と、劣悪な管理体制と、続く空襲とによって、慢性的な工員の怠業と、そのしわ寄せが、いつも動員学徒たちに負わされていた。工場は当然のように退廃的な雰囲気に満ちて、虚無的な淫靡さが支配していた。女専、高女の若い娘たちも、この工場には多く動員されて来ていた。彼女たちは制服の上衣にモンペ、そして、日の丸の鉢巻き姿であった。少年の眼にはそれは清楚に映った。しかし、それはいまにして思えば、形骸に過ぎなかったかも知れぬ。私たち少年の仲間にも、誰某と、某高女の生徒とがひそかに交際しているという囁きが、羨望をこめて私語されていた。私たちは、私たちよりも一世代上の青年たちのように虚無的でも絶望的でもなかった。そうした形而上の観念に苦しむにはまだあまりに稚なかったからであろう。その日その日を小動物のように生きていたといった方が正確であろう。
 工場に動員されて、三月目に私は病んだ。私は入院して、絶対安静が続いた。夜毎に空襲があった。爆撃されれば私はベッドの上で手術後の不自由な体で、焼死するべき運命だった。一本の蒼桐と苔づいた高い石塀は、その病室の窓から見た情景なのだった。
 某日、私の病室を郡山女専の小柄な少女が見舞ってくれた。私はその少女と同じ工程の作業場にいたのだった。見舞うといっても、少女は、病院の玄関から廊下づたいに病室を訪れたのではない。病院の裏門から庭伝いに私の病室の窓に立った。そして、窓越しにベッドの私に一言、二言の言葉をかけて、貧弱な、だがその頃はもう貴重な花を窓からサイド・テーブルの上に置いて帰った。その庭は決して日が射さない。晴れているのにいつも夕暮が、薄曇りのような庭に小さな、例のモンペ姿の少女の顔が夕顔のように浮かんでいた。――その花がなんであったか、もう忘れた。少年の私はこの年上の少女の厚意を、感動とは別のまるで異様な一種の不思議な感覚で、卓上の花を眺めていた。少女とは作業上のこと以外にほとんど親しく口をきいたことがなかった。ただ、私はこの少女から電気ドリルの扱い方、リベットの打ち方の手ほどきを受けただけだった。少女も必要以外に私に話しかけようとはしなかった。だから、私は彼女の突然の見舞いが不可思議だったのだ。少女の名は河野矩子といっていた。八・一五を境に彼女たちは故郷に帰っていった。――それだけであった。その少女はたぶん原田康子氏と同じ年頃ではなかったろうか。河野矩子はその少女時代の事故の唐突な行為をもう記憶してはいまい。生きることだけに懸命だった戦後の三十年という歳月が、とうに彼女の最も繊細で敏感だった少女時代の精神をすっかり磨滅させて、いまは生活に根を据えた、そんな感傷の過剰など一片も所有しない東北の中年女性に成り終っているの違いない。
「雪の巣」の角達二や津崎優のような少年体験を私は持たなかったが、その少年像にあの時代を生きた確かな共感があるのは、同じ時代を生きたものだけが共通する感傷からであろうか。――私はそれを否定したい。感傷を所有するには、私は既に人生を行き過ぎている。
 ただ、角達二や津崎優の世界が、かつての十代の私の世界と精神の内部で和音を奏するのだ。――それは歴史の底の埋没してしまった少年たちの抒情歌といってしまえばそれまでなのだが、「雪の巣」をそういう意味で読むことも可能ではないだろうか。
 
     ――小川和佑『わが一九四五年 ――青春の記録1』
        (昭和五十年九月・現代教養文庫・社会思想社刊)
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