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わが一九四五年――3 続、青春の運命
2018/07/31(Tue)
 わが一九四五年
 
 3 続、青春の運命
     ――白鳥の歌――

 
    1
 
 一九四〇年代は、青年の死が最も讃美された時代である。死の思想が精神の強力な支柱となる時代が青年たちにとって幸福であるわけがない。しかし、その死の思想が国家目的のイデオロギーとして集約された時、その美しい死は、欺瞞に満ちた腐臭を放つものとなる。
 しかし、四十年代前半の知的青年たちは、この強制された死に、運命の美学を見ようとした。
     ……  ……  ……
     ……  ……  ……
  堪へがたければわれ空に投げうつ水中花。
  金魚の影もそこに閃きつ。
  すべてのものは吾にむかひて
  死ねという、
  わが水無月のなどかくはうつくしき。
                         (伊東静雄「水中花」)  
 伊東静雄の「水中花」の詩句が時代の渦中で最も強い光芒を放ったのはこの故である。
 この場合、宮野尾文平の戦死が、あと四ヵ月延期されていたらという仮想は成立しない。運命とはそうしたものである。
 宮野尾文平の死に至るまでの過程は、決して、彼が夢想していたような荘厳で美しい死に至る時間でなかったことは、その詩を一読すれば判らされてしまう。美しい死とは、この時代の知的青年たちにの最小の希求をこめた共同幻想であった。
 若き国文学徒松永龍樹の「従軍手帖」は、この共同幻想を失った青年の苦悩の遺書である。この手記は『戦争・文学・愛』(昭43・11、三省堂新書12)収録されている。

    2
 ……  ……  ……
    3
 ……  ……  ……
 その兄(※松永茂雄)の『学徒兵の手記』に答えるものとして書かれたのが、弟龍樹の『従軍手帖』であった。
 ……  ……  ……
 この小さな手帖は一九四〇年を生きた青春の運命の形見である。
 歴史の方向の転換がなければ、私たちもまた、確実に松永茂雄・龍樹兄弟、宮野尾文平たちの運命をたどって、その青春の半ば以上を残して、その生涯を閉じる運命にあったはずだ。そうした苛酷な運命下の時代をなぜ老人たちはよき時代と回想すのであろうか。また、せねばならないのか。
 そして、時代の思想はなぜ、この悪霊の時代を蘇生させようとするのか。老人たちにとって、あの悪しき時代もまた、懐しく美しい季節なのか。強いられた死を讃美された時代を、生き残ったものたちが懐しく回想し、その時代に郷愁さえ見せるということは、許し難い厚顔である。――青年たちが「戦後世代」(※ここでは通常言う「戦後に登場した世代」という意味ではなく、「戦後に生き残った従来の世代」を指しているものと思われる)を否定、あるいは無関心を装うのは、生き残ったものの鈍重さに対する積極的拒絶を論理でなしに情念として感じ取っているからではないか。「昔はものを」の詩抄と、「従軍手帖」はあの八・一五を境界とした、それより以前の私たち少年期の鎮魂歌である。
 ――にもかかわらず、私たちは生きた。決定的瞬間で、私は私の生を全的に私の意志で生きる気権利を与えられた。一九四五年夏を私は忘れない。
 
     ――小川和佑『わが一九四五年 ――青春の記録1』
        (昭和五十年九月・現代教養文庫・社会思想社刊)
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わが一九四五年――2 青春の運命
2018/07/02(Mon)
 わが一九四五年
 
 2 青春の運命
     ――あひみてののちの――

 
    1
 
 私たちよりも、一世代上だった少年たちが、どんな青春をたどったか。――つまり、「雪の巣」における角達二に集約される昭和十年代の少年が生きたその軌跡を私はたどらねばなるまい。八・一五という時点が到来しなかったならば、私たち自身の青春と全く重層化するはずの運命であった。――私たちは映像としてのあの一九四三年十月二十一日の氷雨の神宮競技場の光景を未だ鮮烈に眼底に残している。三万五千名の学徒たちはこの壮行会において雨に打たれながら、「抜刀隊」のマーチの中を行進した。暗い映画館のスクリーンのなかで私はニュース映画の一情景としてそれを見ていた。
  したがって、角達二、津崎優に対する精神の和音というものは、もう少し詳細にいうならば、それは「負」の和音というべきものであろう。しかし、それを明確に自覚したのは八・一五以後である。散華の思想を稚かった私は未だ内なる思想として正確に把握していなかった。
 
    2
 ……  ……  ……
 宮野尾文平は一九二三年(大12)二月十三日生まれ。彼が航空将校として九州太刀洗飛行基地(一説には鹿屋飛行基地ともいう)で昭和二十年春、その生涯を終った折、二十一歳。旧制第三高校二年在学中に応召。――文科学生には徴兵猶予はなく、確か宮野尾が徴兵された年には、徴兵年齢が一年引き下げられていたはずであった。
 ……  ……  ……
 この三篇の詩(※「昔はものを」「喪心の日」「遠日」)から、例えば立原道造、矢山哲治を連想することは容易であろう。
 しかし、宮野尾文平の詩は青春の共通の歌を立原や矢山と唱和しながら、立原、矢山が体験しない苛烈な運命のなかで死んでいる。
 死の一年前に書かれた「昔はものを」が、二十歳という年齢を併せ考えて、いかように優れた抒情詩であろうとも、所詮、宮野尾の詩は習作であろう。詩史の上に再評価すべき詩人ではなく、「戦後三十年」のなかで、私にとっては忘れ難い、そしてそれはまた私の運命であったかも知れぬマイナー・ポーエットなのである。
 ……  ……  ……
 立原の「あひみてののちの」が、原歌の主題をそのモチーフとしていることは、ここで論ずるまでもない。しかし、宮野尾の「昔はものを」は決して恋歌ではない。
 これはまぎれもなく戦後文学、戦後詩の主題に立つものである。限定された青春を生きたものだけが歌える主題である。――私自身に即していえば、あの一九四〇年の後の自閉的な世界における狂的な精神主義、形式主義のなかに身を置いたものには「泥土に汚れる白い靴下を毎日洗って」という詩句の抒情の深さは胸を衝くであろう。思えば、少年の私たちを厳しく幽閉していた精神主義、形式主義、あれらは人間の精神を破砕する残忍で卑劣な愚行の一言に尽きる。
 
     ――小川和佑『わが一九四五年 ――青春の記録1』
        (昭和五十年九月・現代教養文庫・社会思想社刊)
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