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わが一九四五年――1 一九四五年という夏(3)
2018/05/25(Fri)
 わが一九四五年
 
 1 一九四五年という夏
     ――わが私的回想のなかで――

 
    3
 
 あれから多くの季節、就中多くの夏が、暦のなかを過ぎていった。しかし、それらの夏はたったひとつの夏の比重に及ばない。――ひとはそれぞれ、誰しも人生でそうした季節を所有しているはずで、その季節を負って生きているはずだ。
 少なくとも、十五歳の夏以前の私を含める、日本の常民の少年たちには、未来について語る資格は、当時の国家権力によって剥奪されていた。私たちはまだ青年になるために残されていた残り少ない時間を制限つきで与えられていたに過ぎない。憎悪を籠めて情念的な表現を用いれば、「国家」を僭称する産軍共同権力の維持に供せられるべき無名の要員にしか過ぎなかった。
 一九四五年、私たちは既にほとんど授業を放棄させられていた。その替りに勤労動員という名のもとに成人と同等に近い肉体労働を課せられたていた。教師は極く少数の例外的な最後まで知識人の自覚を辛うじて保持していた数人を除いては、機構の末端にある下級管理者に堕していた。
 当時、動員された工場(中島飛行機製作所,現富士重工)では、十四、五歳の少年たちにも、手当の現物給与として、時折、煙草が支給されたと聞いたら、現代の教育熱心な若い母親たちは、こういう事象を絶対に黙認するまい。少年たちは絶望も悲観もしていなかった。在るがままの現実を素直に生きる以外の生き方を知らなかったから――。彼らは過労と空腹のなかで、喫煙の習慣を覚えた。あたかも、ラテン・アメリカの山地に追い詰められたインディオたちが、その空腹から遁がれるためにコカの葉を嚙むように。
 そうだ。この章の冒頭で私は、盛夏なのに上着を着ていたと書いた。――だがその上着は黒詰衿の学生服ではない。旧制中学生としての制服、制帽を許されたのは入学当時のたった一年だけだった。次に与えられた服装は、黄土色の軍服まがいの制服と軍帽まがいの同色の戦闘帽と称するものであった。全校生徒は集合整列すると、私たちと私たちより一期の少年たちはこの黄土色の集団で、その右側――上級生から下級生へは右から左へという日本的階級秩序の慣例に従って集合していた――からは黒色の制服集団であった。この黄土色の制服は、私たちにとってはいまから予約されていた死衣だったのだ。
 ――これはこの一冊の主題のほかなのだが、私と同世代の教育者たちは、なぜああも少年たちに制服を強要したがるのであろう。彼らにとって、かつての制服に対する忌まわしい原体験はとうの昔に、風化し、解体してしまって、精神に何らの痕跡も留めていないのだろうか。つまり、彼らはなにひとつ、精神の結実をももたらさずにただ喰い、生きたに過ぎなかったのか。しかし、これは単なる末梢的な現象に過ぎない。
 私は私の「私性」に拠る原風景の持続する限り、所謂、平和のなかに生きて来た同世代に深い失望と、ひそかな瞋恚を覚えぬわけにはいかぬ。いまにして思えば、私にとって「国家」とはなにであったのであろうか。十五歳の私に国家は、悉皆死以外のなにものをも与えてくれなかったような気がする。
 
     ――小川和佑『わが一九四五年 ――青春の記録1』
        (昭和五十年九月・現代教養文庫・社会思想社刊)
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